間違いが見つからなかった。いつでも最善を考え貫き通し、その場その場を乗り越えてきたフェアには、どこで何を見誤ったのかが分からなかった。
 何一つ間違いなく自分の気持ちを汲み取って、きちんとそうあるべきものを見つけ出して実行して。それとも全てが虚言であったのか、緩やかに流れる思考のどこかでいつかの自分が自嘲を浮かべているような気さえした。

「わたしの目はずっと閉じられたままだったのかな。結局納得できなかったよ」

 濃厚な魔力の結界が終幕を見極め徐々に拡散されていくさまを見届けてから、堕竜に属することになってしまった彼に向き直る。
 くすんだ暗い色を纏った体はフェアの何倍も、何十倍も巨大で空と一緒に見上げる形で眼を合わせた。

「気に病まないでくれ。ボクはこれで充分に満足なのだから。生きているだけで、ただそれだけのことができるだけでこんなにも、あの空の美しさを知ることができる」

「それでもわたしは何かを間違えてしまったんだよ。貴方がこの世界で貴方のままに生きていく事を、望んでいたのに出来なかった」

 低く重苦しい声が被さる彼の言葉を止めるように、フェアは畳み掛ける。
 おそらく根本の優しい彼は、何もかもを認めた今、絶対誰かを責めはしない。
 それがとても居たたまれなくて、自分の腕を引っつかんで握り締める。短く切られた爪が衣服に食い込みへこんでいく。

「間違えたのだとしたら、それはボクさ。他の誰でもない、狂い果てた愚かな――」

 ギョロギョロ物騒な瞳がまぶたに覆われる直前、確かに悲壮をちらつかせる色を見せたのに、フェアはどうしようもなく俯いた。




(それが幸福の一片だというのなら、貴方は変わったという何よりの証拠なのですね)
(ギアンルート行こうとして失敗した2人)





[2012/08/25 - 再録]








「で、こっちがお姉ちゃんの家までの道。そこが駐在所」

 人差し指をせわしなく移動させ、なるべくわかりやすいようにと簡潔に説明を加える。この町に住むのだったら、最低限の地理は覚えておいて損はない。

「そこまで広くはないから、すぐに覚えられるよ」
「ああ、はやく慣れるよう善処する」
「そうそう、うちに来るまでに迷われちゃ困るしね」

 冗談交じりに呟き横目で見やると、なにを言ってるんだといいたそうな顔で眼を見開いていた。その反応にこちらも首を傾げる。

「迷うわけないじゃないか、君のいる場所なのだから」




 フェアちゃん、顔赤いわよ熱でもあるんじゃないの、ずっと働いてばかりでしょう。
 速い足取りで商店街を横切っていく時、買い物帰りのおばさんが心配げに眉を下げながら呟いた言葉に、ぶんぶん首を振ってなんでもないと否定した。その際、熱がどこかに飛んでいってくれればいいのにと心から願っていたのに、なぜかその願いが飛んでいってしまったのをどこかで実感しながら。




(残っているのは、手の平のひりひりするわずかな痛み)





[2012/08/25 - 再録]








「あなたは、」

 からん、と軽い何かが床に落ちる音が聞こえる。
 どうってことはない、ただ少女が手を滑らせただけ、時折手伝いに顔を出す桃色の髪の少女がやってしまうこととまったく同じだった。
 たったそれだけのことなのに、鼓膜に張り付きいつまでも余韻を伝えているようで、背筋に冷たいものが走る。

「どうしてそんなに泣きそうな顔して、平気だって言っちゃうの」

 どっちの方が辛く目元をゆがめているのだと言えず、ただ黙り込んだ。噤んだ口の変わりに少女のそれがゆっくり開閉し形を変える。

「悔しいな、わたしはギアンが辛い思いをしている間、何も出来ないんだ。何もさせてくれないんだ」

 まぶたに覆われた瞳から薄く流れる透明に、内蔵全てをつかまれたような衝撃を受ける。からん、と乾いた音が再度耳に届いたような気がした。





[2012/08/25 - 再録]








 優しい嘘をつく貴方の背を押してあげるよ。

「ねえ、明日も来ようね」

 小さく囀る小鳥達が羽ばたく音を耳に挟み、小さな頃からずっとそこに構えていた店からそっと視線をずらす。
 振り返った際、髪飾りをつけていない髪がふわりと一瞬持ち上がり、赤髪の青年を瞳が捉えたときには大人しく肩にかかる。先生の目を盗んで小さくおしゃべりしている子どもみたいだ。

「ああ、そうだね。ここは穏やかで、心地いい」

 青年はほんの僅かに頬の筋肉を緩めた。どうしていいか分からない、なんて言えばいいのか分からない。そんな時にする表情はいつもそれだった。

「ギアン」

 そのときの、決まって合わせようとしない瞳が揺れる。それはとても臆病な兎のように。

「言いたいことがあるのなら、ちゃんと言ってね」

 穏やかな風に髪が舞う、青年のマフラーもつられてたなびく。酷く優しいそれに、乾かされるはずのフェアの瞳が潤む。

「――分かっているさ。分かっているとも、フェア」

 普段の笑みを浮かべて言い切った青年の手が、反対側の腕を握り締めていることについては何も問わず、フェアは小さく笑った。

「ありがとう、ギアン。でも、嘘はいけないわ」
「嘘なんか、」
「両親のお墓参りに、行くのでしょう」

 もう自分を殺さなくて、いいんだよ。




(初めて御参りに行こうと思えて、でもどうしようかなと考えていたら)





[2012/08/25 - 再録]








 大切だった。世界より未来より、君に勝るものはないと思っているくらい。

「大切さ、本当に。狂っているのが自分でも分かるほど」

 手に余るそれが何かを青年は知らない。ただ自分を繋いでいた糸が切り離され、手持ち無沙汰になったその手を所在なげにぶらつかせて気を紛らわせている。ごまかしているのだ。
 クラストフ家から持ち出した書物や、必要に駆られて買い出してきたもの、全てを本棚に納め、扉を開いて真向かいに位置する机上に数冊だけ乗っている。それは棚に入りきらなくなったわけではなく、現在の状況を吟味するために必要だと判断したから分けておいているだけ。ベッド代わりのソファがオマケのように脇に設置されていて、それを覗けば全体的に書斎の形式をした部屋は、青年が私室として拝借している空間だった。

「ああ、フェア。君がいてくれさえすれば、復讐なんて忘れてしまえるかもしれないというのに!」

 熱狂的な愛は人を変える。独身欲やたくさんの感情が疼き、形成されるものはもちろん、純白とはかけ離れていた。

「フェア、君は道具じゃない。だから、今度こそ」

 問いかけの答えを訊きに行かなくてはならない。
 徐々に名を付ける事さえおこがましい感情が心の奥へと収束するのを待ってから、青年は私室を後にした。




(それでも強要させる術を持ちえなかったのは、臆病だったから)





[2012/08/25 - 再録]








「古株から芽が出るなんてこと、妖精樹にはあるのかな?」

 枯れ木に囲まれた泉に一番近いところに位置する樹の断面を撫で、フェアは答えを求めて呟いた。
 樹は無惨にも切り倒された後で、足元に残ったお情けのような一部の側面の皮は、ほとんど剥がれてしまっている。
 手に当たる茶は脆く、ぱらぱらと崩れていくので、フェアは手を引っ込めた。樹が小さくなるにつれて、母が今以上に孤立するような気がした。

「さあ。普通の樹とは明らかに違うし、容易には判断できないよ」

 青年はあくまで淡々と、そうとだけ口にする。赤に染まった髪を向かい風に捕らえられ、小さくなびいた。

「まあ、君が私達の所へ来てくれるというのなら、彼女を救い出す方法を考えてあげるよ」
「…やっぱり、むりだよ」

 声に力が入らないのを自覚しつつも、フェアはゆっくりと息を吐くように言葉を押し出す。一緒に嗚咽も漏れてしまいそうだったので、すぐに口を押さえた。

「急かしているつもりはない。ゆっくり、答えを見つけてくれればいいのさ。君が傷つかない選択をしてくれる事を、祈っているよ」

 フェアは頼りなく首を左右に振るだけで、青年の顔を見ようとはしなかった。今の自分がどんなに脆いかをよく分かっているつもりでそう対処する。
 そして小さく笑みを零す青年の顔色が若干曇ったことに、フェアはとうとう気づかなかった。




分からない、皆のことも、貴方のことも。





[2012/08/25 - 再録]








 空は何も言わずに曇っていく。一人で考えて考えて思考を巡らせ抜いて、独断と偏見の上で変化を遂げる。誰かに支えられているとおおっぴらに見せる事は一切なく、ただ一人ぼっちで気ままに決める。それがどういった理屈であるのかは知らないのだけれど、と溜息をつく。

「ありがとう、ギアン」

 文献を広げ新たな路を自ら切り開こうとする青年に声を投げる。どうしたんだい、と予想通りに返ってくる文句になんでもないのと会話を区切り、瞳の先は空に固定したまま心に詰め込んだ言葉を心中呟く。
 これで私は前に進む権利を得られたのですから。




いつかちゃんというから、それまでは。





[2012/08/25 - 再録]








「なかないで」

 泣かないで、といいたいのはこっちだというのに、少女は自身の涙に気づいていないようにギアンの瞳を覗いた。上を向いている所為で、少女の眼を覆うレンズのようにたまってから役目を果たしたように頬を伝っていく。
 視界は歪んでいるはずなのにそれでも少女は泣かないで、とただそれだけを必死に手元の袖を掴みながら繰り返していた。

「なんでフェアは泣いているんだい」
「ないてなんかない、ぎあんこそ、どうしてなくの」
「僕は泣いてないさ」
「うそ、ないてる。だってしずくがおちてくるもの」

 ぽたぽたと流れる涙は確かにフェアのものだと思う。けれど彼女は不可解に、それはギアンの涙だと述べていた。こんなにも少女の瞳の奥から、綺麗に澄んだ水が溢れているというのに。

「おねがいだよ、ぎあん。なかないで。わたしはないてるかもしれないけど、ぎあんだってないてるんだよ」

 唐突に伸びた少女の腕に、小さく肩を震わせ固まる。その手は物怖じせずにギアンの目頭を捕らえ、ゆっくり拭う動作をしているようだった。

「ほら」

 見せ付けるようにギアンの目元に当たった指を目の前に持ってくる。人差し指の側面は濡れていて、やがてぽたりと重力に負けて落ちていった。

「まだないてる、なかないでほしいのに」
「、ボクだって、君に泣いてほしくない」

 視界は歪まない、けれど今度は確かに、頬を伝う何かを感じ取る。それがゆっくりと下がり、顎へ行き着く前に少女の頬に乗り移っていった。
 ああ、そうか、彼女は二倍に泣いていたんだ。誰かのために泣くとか、そういった綺麗事ではなく、きちんと受け止めて。

「ねえ、なかないで。もうなかないで」
「君が、泣き止んでくれるなら」
「うん、わかったから、どうか」

 どうかもう、つみのいしきでじぶんをしばりつけないで。
 昔は泣き虫だったのだと、過ちを犯してしまったときに聞いた彼女の父の言を思い返しながら、少女の背中を叩く。ずっと小さいのに存在の大きな、たいせつなたいせつな少女と自分の涙が枯れる前に、顔中をくしゃくしゃにするそれが止まるのを待ち望みながら。





[2012/08/25 - 再録]








「あっちには調理台、ある?」

 さすがに厨房はないだろうとフェアは考えて、控えめに言葉を包んで聞いてみた。頼りになるセルファンの戦士が、自給自足の生活をしているといっていたため、食事は簡易なものだと勝手に決め付けていた。

「店の厨房ほどじゃないけど、一応器具も揃っているはずだ」

 町一番の喧騒を立てる商店街に、コンクリートを叩く足音がかき消されていく。けれどまんまと一緒くたに飲まれそうな声は、不思議とフェアの耳にはっきりと届いた。落ち着いていて、余裕のある大人のような、おおらかな声。今は鋭利な棘も削がれていて、優しく鼓膜を震わせる。

「じゃ、材料買って皆が集まれば、すぐに発てるね」

 よし、と手ぶらの両手で拳を作る。財布役兼荷物持ちを名乗り出た赤髪の青年により、現在は護身用の剣さえも持っていない。護衛みたいな役目も何気なく担ってくれている、ギアンといった名を両親から授かった、フェアよりずっと背の高い青年の顔を仰ぐ。
 ギアンは真直ぐ前を向いていて、横顔は嬉しそうな、けれどどこか困ったような表情を映し出していた。

「どうしたの?」
「いいや。生きていられて幸せだな、と」

 それにしては笑みが若干困惑に侵食されていることが、フェアには引っかかった。小首を傾げ、さして深く考える前に思考を打ち切る。幸せだと本人が言っているのなら、それは真実に他ならない。ならそれでいいじゃないかとフェアは思う。
 じいっとギアンの顔を見ていると、急にフェアへ視線を投げて、どうしたんだい、と問うてきた。その動作がとても大人びていて、フェアは少し恥ずかしくなって少し目をそらす。

「――なんにも。ほら、前見ないとこけるかも」
「万に一つもそんなことはないさ」
「どうかしら。いきなり子どもが飛び出てくる事だっているんだから」
「よろけることはあっても、転びはしないね」
「分からないじゃない」

 道でもよさげに思える会話がもう三言ほど続き、フェアは小さく吹き出した。ギアンは明らかに怪訝な目をフェアに当てている。

「ごめんごめん。ギアンとこんな会話ができるようになるって、あの時は考えもつかなかったから」

 ぺろりと少し舌を出して見せると、ギアンは数秒考えるしぐさをしてから微笑んだ。少し前の、企みの入り混じったような、それでも充分優しげな。

「これからはいつでもできるさ」
「そーね。毎日が楽しいわ、きっと」

 空に両手を突き出して大きく伸びをして一言。ギアンの笑みに違和感を覚えつつも、フェアはこれからの日々に緩やかな平和を描いて一際大きく靴を跳ねさせた。




もう少し先の未来で、私たちの何かが変わっていく気がした。





[2012/08/25 - 再録]








「ちょっと手、出してくれる?」

 フェアが不意にそんな事を言い出して、ギアンは素直に従った。出した右手は成人男性平均の大きさで、さして目立つところもない普通の手。それでもこの手が奪った幸福は底知れない。

「できれば両手がいいんだけど」
「どうしてだい」
「いいから」

 食い下がっても訳を言わないその相手がフェアである事が祟って、結局ギアンが折れる事になり、左手の掌を上にして前に出す。右手ほどではないものの、それは確かに様々な人から大切なものを奪った手だった。
 今さら過去に自己嫌悪を抱いていると、フェアは両手でギアンの両手を引っつかんだ。ギアンの両手は一回りも二回りも小さいフェアの両手に包み込まれる形で、はみ出しつつもぎゅうぎゅう詰めにされる。困惑を覗かせるギアンにお構いなしで、フェアは自分の額の前まで手を上げさせた。

「どうか、貴方が過去を振り返ったときに、わたしたちとの楽しいと感じられる思い出が真っ先に浮かぶようになりますように」

 凛と空気や人の心を振るわせる芯の通った声で、フェアはそう言った。フェアより背の高いギアンからは手に阻まれて見えなかったが、幾人もの心を救ったその唇で。

「わたし、ギアンを苦しめたくて戦ってたわけじゃないよ。だからもう、後悔しないで」

 おでこからゆるゆると四本の手を下ろし、フェアは言った。真摯に見つめる瞳は真剣そのもので、ギアンはこみ上げてくる何かを押さえながらやんわり手を振り解き、勢い任せに抱きしめた。
「ちょ、人が来たらどうするの」と自分だって割とそう思わせることをしたフェアに構わず、ギアンは抱きしめ続けて頭部の銀髪の上におでこを乗せた。




(やさしいきみも、なにもこうかいしないように)





[2012/08/25 - 再録]