初めて壊してしまいたいと思った。何回も自分の非力を恨んだ自分が、初めて。

「エニシア、駄目だ」

 振り上げた手が捕まれた時、エニシアは眼を見開いた。
 隣に視線をずらすと、片目を瞑って右手で頭を抑える銀髪の少年の姿があり、エニシアの手首に左手が伸びている。

「何で、だってライ、この人に殴られて、」
「駄目だ。エニシアは誰も傷つけちゃいけない」

 でも、というより早く、エニシアの耳元を通るものがあった。それが拳だということに気づく前に、空気の切る音と、打撲音が順に鼓膜を揺るがす。

「ライっ」

 きっ、と目の前にいる男を睨む。なにがしたいのかよく分からないひょろひょろした男は背だけが飛びぬけて高く、にやついた表情にエニシアは悔しくなった。こんな奴より少年の方がずっと強いのに、甘んじて拳を受ける少年の代わりに悲鳴をあげて殴り返して。

「エニシア、もう少し我慢」
「え?」

 気の抜けた声が口から漏れた瞬間、背後から駐在軍人の声が周囲に響き渡る。

「ほーら、兄貴が来た」

 ちらり、とエニシアの眼前に碧の光を讃えた石を見せる少年に「どうして」とだけ力の抜けた唇から紡ぎだす。

「ここで殴り返したら、宿の評判を落としかねないからな。それが狙いであいつは殴ってきたとみた」

 企みに気づいた少年の含みのある笑みがエニシアの顔の横から離れていき、少年は駐在軍人に小さく手を上げて挨拶する。

「おっす」
「ライ、大丈夫かー?」

 早々に逃げようとしていた男を縛り上げてから、駐在軍人は気遣いやらなんやらは全て吹っ飛ばして少年の肩を叩いた。その足元でちょこちょこ動く小動物の頭に手を置き「ありがとなー」とライが言っている所を見ると、駐在軍人を呼び出してきたのはあの子らしい。
 その光景にあるのは揺ぎ無い確かな信頼で、それがとても羨ましく、けれど加わってはいけないような気がした。

「おう! あとで兄貴んとこ行くから、こいつちゃんととっ捕まえたまんまにしといてくれよな!」
「とりあえず取調べだから、あまり遅いと釈放してるかもしれないぞ」

 軽い調子で言い合う二人をみて、エニシアは安堵の所為か全身の力が抜けていくのに合わせてその場に座り込む。
 平和な町の小さな事件は、大好きな少年と頼りになる兄貴分の共同戦線で幕を閉じ、エニシアはその日、少年の異なった強さを見た気がした。




(悪ガキって感じがライにはある気がする)





[2012/08/25 - 再録]








「いつか、二つの世界から貰った命に誇りを持つ時代が来るのかな」

 地平線に潜り込む夕日色に平原が照らされる。
 なだらかな線の影を落とす草々は燃えているようで、同時に不思議と落ち着いているようにも思えた。

「ああ、くるさ。俺らだけじゃなくて、皆が当たり前にそう思う日が」

 確信があるわけでもなく、ただ信じられるくらい、自分たちの命が疼いていることをライはよく理解しているつもりだった。意地ではない、真直ぐな信念に似た、それこそライにとっては当たり前の気持ち。

「今まで積み重なった命の分も、頑張ろうな」




今からでも遅くない、まっとうに生き抜いて、誰でも幸せに暮らせることを証明してやる。





[2012/08/25 - 再録]








 久しぶりにもらった休暇は曇りだった。太陽の光が降りかかるわけでもなく、雨がしとしと物悲しく落ちてくるわけでもなく、白に近い灰色と灰色らしい灰色の雲が青い空を覆うばかりの天気。

「運が悪いって割り切るしかないな、さすがに」

 シーツも何もかかっていない、物悲しい竿の周辺を箒で掃き、飛んできた落ち葉やごみをかき集めながらライは呟いた。
 そもそも次の日の天気なんて運任せに等しいとライは思っている。未来の空の機嫌なんて、よっぽどそれに関する知識を持っている奴でないと分かるわけがない。

「雨が降っていないだけまし、かな?」

 声のした方向に眼を向けてみると、苦笑いを浮かべるエニシアがちりとりを手に歩み寄ってくる所だった。独り言が聞かれていたらしい。

「悪いな、今日はルトマ湖にピクニックの予定だったのに」

 空の機嫌なんて分かるわけがない。少なくともライにはちっとも理解できなく、ということはもしかしたら、これから雨が降ってくる可能性も捨てきれないわけで、遠出は好ましくないと判断せざるを得なかった。
 せっかく気分転換に、すっかり氷の解けた湖で心地よい風に吹かれながら、新しく考え付いた料理をエニシアと一緒に批評できると思ったのに。最終的な目的がどうにも料理人から抜け出せていないのは、多分長いことそれで生計を立てていたからなのだろう。

「ううん、また今度、天気の良い時にいこう?」

 もちろん、と一度頷いて、エニシアからちりとりを受け取り(間違ってもちりとりを持たせてごみをエニシアに向けることは絶対にしてはいけないと、脳の警告が告げていた)集めたごみを箒で中に押し込む。宿屋として、掃除を怠った覚えはないが、ちりとりに目一杯入れても残りが出た。

「明日晴れればいいね」

 言葉につられて空を仰ぐ。先程よりも灰色の度合いが増えているように見えるのは、気のせいじゃない。

「そうだな」

 明日は仕事復帰だけど、と心中でだけ付け足して、ライはこれからエニシアに何を振舞おうかと昼の献立を考え出した。




(次の休暇はずいぶん先だと思われる)





[2012/08/25 - 再録]








「この腕輪、優しい気持ちでいっぱいだね」
「ああ、母さんの樹で出来てるみたいなんだ」

 エニシアの視線を一身に受ける腕輪を左手でつまむ。ひび割れた箇所から母の故郷を連想させる淡い翠の光の粒が放たれ、ライの瞳の前で踊っている。

「いいなあ。私には、両親からもらったものがないから、羨ましい」

 ギアンにも、命に等しいお守りがあったから。
 寂しげに眼を細めるエニシアは少し俯く。桃色の髪が一房分、肩から落ちた。

「何言ってんだ、エニシアにだって、あるだろ」
「え?」
「母さんからの祝福とか、綺麗な桃色の髪とか。何より――」

 一度意味ありげに言葉を区切り、充分間をおけたかな、とライがエニシアの表情を見極めてから、自分の頭を軽く叩いてみせた。

「会って来たんだろ? いい思い出があるじゃんか」

 細かいことを全部すっ飛ばして、ライはとりあえずかたかたと笑う。エニシアが母に愛されていないはずがない。何かを持っているかいないかで、愛情の重さが変わるもんか。
 エニシアはきょとんとライを見つめて、小さく噴き出し「ありがとう」と言いながら、一緒になって笑った。





[2012/08/25 - 再録]