「お母さん、これでいい?」
コートを着込んで首元をマフラーでぐるぐる巻いたコーラルは、母にその姿を披露した。
服がぶかぶかでコートから手が出なかったりマフラーに半ば埋まる形になっていたりとすごいことになっているが、コーラルは気にしない。
「うん。じゃあ、いこっか」
お情け程度にコートを羽織った母は、コーラルの手を握り締め歩くよう促しながら、肩掛けバックを持ち上げドアを開け放つ。
外から入り込んできた空気は冷え切っていたが、母の手がとても暖かかったしそもそも着膨れしていたので、コーラルは特に反応を示さなかった。
廊下を右曲左曲し裏口から外に出ると、窓から魅入った景色が一面に広がっていた。
地面全部が白、白、しろ。いつかに降った黒のまがいものではない、正真正銘の雪だった。
「うわあ……」
「足元気をつけてね。ずぼっといくから」
母に大きく頷いて見せ、恐る恐る真っ白に足を乗せてみる。
ふわりとした感触の後、足を掬われるように前のめりにめり込んでいく。そのままじっとしていると徐々に足が冷たくなり、堪えきれずに抜き出し、玄関のコンクリートの上に戻した。
「どう?」
「すごい、こんなにたくさん、つもってる」
「でしょう? わたしもこれだけ積もったのを見るのは久しぶり」
母はとても楽しそうに笑んだ。それからコーラルの手を離さないまま真っ白なキャンパスに足跡をつけていく。
「ほら、ちゃんと歩かないと引きずって行かなきゃならないんだからね」
一歩、また一歩。コーラルが自分から歩き始めるように、母は銀色の髪先を揺らしながら、ごく小さな歩調でゆっくり足を運ぶ。
この人が自分を置いておくことも、無理やり連れて行くこともしない事をコーラルはよく知っていた。
きっとここで行きたくないといえば残念そうに手を離すだろうし、待ってといえばしょうがないなあと苦笑しながら待ってくれる。
だからこそ、きちんと雪の上を歩かなければならないと思った。ずぼり、ずぼりと足を取ろうとする、けれどふわふわとしたそれをじっくり踏みしめて。
コーラルは先ほど自分でつけた足跡にもう一度足を置いた。ふわふわな感触はすでに失われ、しっかり足場となって固まっている。
「よし、転ばないように気をつけてね」
「うん」
常よりずっとゆっくり慎重に足を動かし、両手で数え切れないくらいの歩を進めたら、急にその感覚が楽しくなってきた。
ちょっと早めにずぼずぼと、もう少し早くがぼがぼと。調子に乗って走ってみたらすぐにこけてしまって、顔から雪に突っ込む。
その拍子に手を繋いでいた母も巻き添えを食うことになり、雪から顔を同時に離して笑いあった。
笑いながら「ごめんなさい」と呟くと、「しょうがないなあ」と優しく頭を撫で、コートや髪に付いた雪を払ってくれた。
「お母さん、皆で遊ぼう」
「買い物が終わってからね?」
少し考える素振りをしてから微笑んで、母はゆっくり起き上がった。
コーラルの脇を支えて起き上がらせ、また手を繋いで雪に覆われた坂を下る。
眼下には、雪の冠をかぶった沢山の建物と、雪玉を投げて遊ぶ子ども達の駆け回る姿があった。
(初めての積もった雪の体験は、ちょっと緊張するってお話)
[2012/08/25 - 再録]
「GOOD LUCK!」
お互い人差し指を前に突き出して、父がよく別れ際に言っていた言葉を噴き出すように叫ぶ。
すでに姿の遠い親友のもとへ、明日、明後日、その後にも続く、二人とみんなの未来に向かって。
振り返った勢いのまま、派手にターンを織り込んだステップを踏んで、親友は特徴的な帽子を押さえつつ帰路に着く。
彼女の美しい金髪の舞に眼をやりながら、フェアはその背が坂に飲み込まれていくさまを見送った。指に絡めた色のないそれに、小さく嘆息を零しながら。
夕日の赤めいた光を反射するそれは、まるで。
[2012/08/25 - 再録]
「お母さんは、恨んでいますか?」
水面に映る銀髪が歪む。澄んでいたはずの水は限りなく濁り、大地を慈しむ術を奪われてしまった。注ぐものが美しくなければ、注がれるものがより輝くことはないと割り切っているかのように。
「皆を、恨んでいますか、憎んでいますか。閉じ込められたことで誰とも言葉を交わせないと、何度嘆きましたか」
故郷にも帰る場所にも戻れない。彼女自身が今、この世界の人間を恨んでいてもなんらおかしくはない。町を堕竜の吐息から救ってくれた少年剣士の仲間が言うには、どうやら父も「はぐれ」の部類に入る可能性があるらしく、それならこの堕ちた楽園で自惚れの頂に君臨する人間達を憎んでいても、あるいは。
もしかしたら何もできなかったのかもしれない父のことも、先の戦いでようやく真実を知りえた自分のことさえも憎んでいるのかもしれないが。
泉の水面に手をつける。波紋が浮かび、フェアの神経を伝って揺さぶるのは、ただ冷え切った水感だけ。
「手をあててもね、分からないの。冷たい水の温度しか。お母さんの生きている証拠、見つからないの」
濁った泉が淀みを失くして、フェアの顔が浮かぶ。歪んだ表情にどうしようもなく溢れる、雫。
「ごめんなさい、ごめんなさい。怖いの。いつも本当は怖かったの。吹っ切ることなんて、できるわけないじゃない」
もしも皆が例外的存在であったなら。見知った相手だったからだとしたら。
それでは、ほかのひとからみたわたしは、ただのばけものではないのでしょうか。
わたしがにんげんでないとしったなら、
にんげんらしくいきることへのいみをもとめることすら、ぐもんだったのですね。
わかってる、わかってる。誰一人としてあなたは恨んでいないことを。
[2012/08/25 - 再録]
古く黄ばんだ日記らしい本の表紙を撫でる。埃が指の腹につき、伝った後を明確に残した。
捨ててしまおうか、と思った。小さな子どもの精一杯の抵抗として、怒りをぶつけて泉に沈めてしまおうか。
「……できるわけ、ないのに」
かなわないと認めるのは癪だった。それがまごうことなき事実で、彼の行った所業はいつも正しい所が更にむかつく。
フェアは小さく嘆息して物置の隅に本を投げつけ、その拍子に倒れた釣竿を引っつかんで外に逃げた。
悔しいと認めることすら、悔しい。
[2012/08/25 - 再録]
ぽたり。
人前で堂々と泣くことなんてずっと前に封印して、もう二度と、そう、あの馬鹿親が妹を助けられなかったとか抜かしたら、罵声と一緒に。その時だけにしようと決めていたのに、止められなかった。
絶対にもう大丈夫だと思っていたのに読みは甘すぎていたようで、雫となって頬を伝い、顎の下で堕ちていく流れを遮る術を、何回も何回も実践していたはずなのに、忘れてしまった自分を呪って「ごめんね」とだけ呟く。
掠れがちな音に乗せて出てきた声は、まるで弱音を吐く幼い日の追憶のようで苦しくて、何もできていない自分は大切な一つのことだってできない弱々しい子どもなんだって思い知らされた。何も変わらない、変われていない。涙を浮かべる少女に同調するように、フェアは視界を滲ませた原因を拭いきった。
そっか、あのひとをたすけるほうほうがみつからないから、はがゆくて。
これは助けられなかったための罪悪感か、それとも想う人への追悼か。
願っても、もう届かない。
[2012/08/25 - 再録]
夢のような夢を見た。
お母さんがいて、妹がいて、馬鹿親父もいて、皆がいて。
大好きな人たちが賑やかな喧騒を立てて、冗談交じりに肩で突付いて、大好きな人たちの大好きな人も一緒になって、自分も彼らを大好きになって。幸せを全部かき集めて、悲しかった事を全部省いて出来たような夢だった。
よくよく考えれば、そんな都合のいい世界なんてどこにも落ちてはいないのだけれど。
だからといって期待が全部現実的なものだけになることだって、なかなかない。だからこそ、目覚めたときの少女の気落ちは相当に深かった。
なまじ寝覚めが良いために、すぐ家に自分以外の人がいないことに気づいてしまう。静まり返る部屋内はひんやりと冷気を帯びている。まるでわざとその気候を保ったような、不自然な。
喪失とはまた違う、いるのに近づけない、手が届かない感覚が少女に纏わりつく。慣れていたはずなのに、どうしても拭いきることが出来ない不安。朝が来て、昼食の仕込をして、最初の一息を入れる頃には誰かに会えるのだろうか。
心に駐在するもやもやに寝付けなくなり、少女はふと時計に眼を向ける。ゆっくりゆっくり、けれども一部の狂いもなく規則正しく時を区切る針は、あと一歩のところで片割れを待っている優しい針に追いつこうと、徐々に頂上へと登っていく。
ほら、頑張れ。お前が頑張った分、俺も頑張るから。
声が頭の中で響く。しばらく会うことのなくなってしまった、あの人の声。
ああ、と少女は時計に眼を向けた原因を理解する。多分一生懸命動く針は自分で、あそこで待っていてくれるのは、あの人みたいだから。
吸い込まれるように時計を凝視する。あとちょっと、あとちょっと。ほんのわずかだけ努力すれば届くから、頑張れ。自分に向けているみたいな錯角を覚えつつも、数分も立たないうちに世界に一度の区切りがついて、少女はベッドでへたりこんだまま、鏡に映る自分に笑いかけた。
「こんにちは、今日の私。へこたれてなんかいられないよ」
夢のような夢を見た。所詮、夢で終わってしまったけれど。
救えない現実に、戻れないあの時に戦慄する。
(しんどかったけれど、それでも一番幸せだった、あの日が恋しい)
[2012/08/25 - 再録]