遠い日を想って泣くことしかできなかった。なぜあの人はお母さんを捨ててしまったのだろう、どんな想いで突き放したのだろう。今は再会を望んでいるのか、それとも彼女を、私を、自分自身を殺したいほどに憎んでいるのか。
 もはや分かるはずもなく、大切な人たちを護れない、力のない自分に叱咤して泣いていた。
 涙を流すことしかできなくて、先に進めなくて、立ち上がれない。それがどうしても悔しくて、がむしゃらに檻の柱を両手で力の限りに揺らす。それさえも無意味なことだと気づくのはそう遠くなく、少女は脱力した手で顔を覆った。
 涙は一向に乾かない。体中の水分が瞳集中して搾り出されていくようなのに、際限なく溢れていく。
 その内自分の涙に溺れて死ぬのでは、と少女は思った。それでもいいと、一瞬だけ思って首を振った。母に、お母さんに会わないと。優しく頭を撫でてもらって、今まで良く頑張ったねって抱きしめられて。それだけを望むことは、いけないことなのですか。
 ふいに遠くから何かが爆発したような音が壁や床を反響して少女の耳に届いた。冷たい鉄の牢獄のように鋭利に響き、何事もなかったかのようにおさまる。
 気のせいだったのかな、と少女が結論付けようとしたとき、今度は男のがさつな喚きが耳を打った。

「なん、なの…?」
「さあ、なんだろうね?」

 独り言を洩らしたら、なぜか返答が返ってきた。頭上から声が落とされたような気がして振り仰ぐと、印象的な赤の髪をした青年が、悠々と立っていた。初めて見る人だった。
 誰、と口だけ動かすと、青年はにっこり笑って「まずは脱出。その後じゃ駄目かい?」と逆に聞き返してきた。
 駄目じゃない、と今度は掠れた声で返すと、青年は満足げに頷いてみせ、翠に光る石を取り出した。




そして物語の始まりへ、歩き出す。





[2012/08/25 - 再録]












 もう将としてできることはない。
 雪山で隊が凍え死ぬのを待つばかりになり、生きる事を諦めたその時、ふと視界に映る桃色の光に心を奪われた。暖色系でありながら、孤高に苦しむ儚い光と男は連想する。

「――笑ってください。あなた方は、まだ生きているのですから」

 近づいてきた桃色は、男達が力尽き、雪に埋もれる光景に眼を瞬かせてから、そんなことを言い出した。
 差し伸べられた手は自分たちの一回りも二回りも、それ以上に小さく、そして綺麗だった。マメやタコが当然のように居座る自分の手とは真逆の、まるで人を助けるために誰かが残した救いの手で、同時に何もできない赤子の手と同義だと、男はふっと湧き上がる感情に任せて言葉を吐く。

「笑みというものは人に強要されるものではない。我らは死んだも同然だ」

 男は手を振り払おうと手を上げるも、少女の手に触れること自体が世界の意思への反逆に思えて固まる。ゆるゆると降ろすこともなぜだかできず、一瞬見せた少女のもの悲しげな顔色に顔が強張った。
 男達がどんなに価値のない事を、忠誠を誓った祖国に証明されたというのに、それでも生きろというのは酷というものではないのか。

「それでも、」

 固まって放置していた手に、少女が両手を添える。少女の手は冷たかった。こんなに綺麗で、透き通りそうな白さを持っていて、けれど冷たくて。

「それでも、ちゃんと生きている。こんなに温かな、人を守る手を持っているじゃないですか」

 だから、死んだなんていわないでください。
 桃色の光は願うように、男の手を包み込んだまま頭上に掲げる。
 男はやめてくれ、と叫びそうになった。こんな手にそんな価値はない!貴女の手こそ敬うものであるのだから!

「…我らは生きる意味をなくしてしまったのです。ですが、あなたが生きろというのなら、どうか貴女をお守りすることで、我々の意味をくださるというのなら、喜んで」




あの時の恩恵、誰が忘れられるものか。





[2012/08/25 - 再録]












 今度はいつ会えるのだろう。
 泣いてばかりの夜を変えてくれた少年が、今どこにいるかわからない、と思う。なぜ会えたのかも分からない。けれど確かにはっきりと記憶に焼き付けられた、気さくな笑顔は色鮮やかで、それをただの夢と片付けるにはいささか無理があるような気がする。むしろ、異なる点から見え隠れする疑惑の方に抵抗を覚えているくらい、エニシアにとって彼は大切な人だった。

「ドウいたシまシたか、ひめサま。ソらはソんなにタのシいのデスか?」

 いつの間にか、いまだに堅苦しいと思ってしまう椅子から身を乗り出していたらしい。体をひん曲げて後ろを眺めた体勢のまま、脇からひょっこり顔を出したふさふさの毛を持つ青年に視線を移す。

「うん、楽しい」

 そうでスか、と朗らかに笑みを浮かべる青年を近くに来るよう手招きする。不思議そうにとてとてゆっくり走る青年が隣に来てから、至極小さな声で尋ねた。

「やっぱり、彼ですか」
「はイ。タブんまちがイはないカトおもイマす」
「……そう」
「でスが、とてモやさしいヒトデした」

 若干必死の色を見せる青年に無理やり笑顔を作って「ありがとう」と口にする。それ以上は何もいえなくて、ガラス越しに見える遠い空へ眼を細めてエニシアは小さく呟いた。
 今度はいつ、会えるのだろう。




それが決別に近い形でも、私は現実に耐えられるのでしょうか。





[2012/08/25 - 再録]












 なぜ私には人を救うことも手助けになることも、負担にならないようにすることさえできないのですか。あそこは重荷を増やす場所ではなくて、大好きな皆が笑って生きていく理想郷でなくてはならないはずなのに。
 それさえも私の生温い考えというだけで、誰もそんな事を仮設立てることもしないというのですか。望むことさえも間違っているというのですか。
 一つの希望を踏みにじらないよう、大切に大切に抱く彼らがいとおしいと同時に、ひどく恐ろしいのです。




「ポムニットさん、このままでいいの?」
「いいえ。今から、ライさんに会いに行ってきます」

 どんよりと曇った空から落ちる黒は一向に止まる気配がない。宙を舞うそのさまは雪と何一つ変わらないというのに、陰気な雰囲気が漂うのは不幸をもたらすものだから。

「大丈夫?」

 心配げにポムニットを見やる桃色の髪の姫君だって、本来ここにはいてはいけない存在だった。空に浮かぶ城で、帰りを待っているはずの少女だった。

「ええ。逃げ足は速いですから」

 前にもこんな事を言った覚えがあったが、今は悠長に記憶を探っている場合ではない。少しでも早く、黒い雪の情報を回さなくてはと心が急かされる。

「ならお願い、これをライに渡して」
「浄化の火種、ですね?」

 少女が取り出した一粒の種を見、的確に名称を答えてみせた。以前に少女が城のものに貰ったのだと嬉しそうに言っていた場面が印象強く、思い出そうとするより早く脳裏に蘇ったことに少し驚く。

「うん。少しは足しになると思うから、お願い」
「分かりました。姫さま、どうか危険なことはしないでくださいましね」
「ポムニットさんも。足手まといだなんて、考えなくてもいいと思うよ」

 充分あの人たちの支えになっていたのだから、と優しく呟く少女にくしゃくしゃになった顔をみせてしまいそうになったが、すぐに表情を引き締めて「行ってきます」と言い残し踵を返した。




(意外なところで人が最も欲した言葉を知っているように言ってくれそうな、優しい姫)





[2012/08/25 - 再録]












「姫さま、こちらに結界が張られているのですが」

 腰まで垂らした紫の髪を風に遊ばせ、帽子のように被った白の布を飛ばされないよう押さえつけた、狭間の娘がエニシアに耳打ちした。
 若干顔に緊張の色を讃え、控えめな視線で少女を見やる。娘の隣で足を止めた亜人の青年も重く頷く姿を少女は認め、二人の先に広がる風景に瞳を向ける。
 町の素朴な雰囲気と似た、どこか異なる世界の面影を覗かせる、宿にしては小ぶりの建物。木々がまばらに散らばり、風が吹くたびに葉を揺らしてざわめきを立てる様は、現在エニシアが住む「船」と同じに見えた。

「大丈夫です」

 娘が指摘した、目に触れない壁が、敵意に呼応することはよく知っていた。それがどのくらいの憎悪に反応を示すのかはわからなかったが、エニシアは自分が引っかかることはないと自負している。心配げに、けれど視線をゆらつかせる従者たちもすんなり通れるに違いない。

「いえ、姫さまなら絶対に通れます、保障します。ですが、御使いの皆さんがどう行動するのかは…」
「ボくらなラいいデす。ケど、ひメさまがきズつくのはタえられまセん」

 直面する確率の高い問題を提示し、顔を歪めて佇む二人に問題ないよ、と笑みを零す。一度止めた足を再度動かし、魔力だけを感じさせる地帯を歩む。

「だって、約束したもの」

 するり、と密度の高い魔力の壁を抜けた感覚に小さく吐息し、エニシアは振り返って「行こう」と優しい仲間達に声を投げた。




夢の中で、貴方と決めたこと、叶えるために来たんだもの。





[2012/08/25 - 再録]












 最初で最後に、と彼の顔に触れようとした手から、彼が抜けていく感覚が嫌というほどに分かった。これ以上悔いは残さないようにしようと努めるように、風にさらわれていく。

「どうして、」

 どうしてあなたが犠牲にならなければならなかったのですか。
 そう呟こうとしたが声が出ず、喘ぎとなって掠れるだけで、エニシアはもう何もいうまいと硬く口を閉じる。彼が解けた空は、何事もなかったかのように青いままだった。




 今の空に、彼の面影を求めることはできなった。





[2012/08/25 - 再録]












 水面とは違う青を広げた空は、楽園のそれよりも澄んでいて、自然に基づいて生きるものたちを見守るような深さも秘めた、不思議な色だった。
 まだ目に馴染みきらないけれど、少女にとっては優しい違和感であって、こそばゆくも嬉しい感覚に微笑する。

「本当は」

 ぽつり、と少女は声を零す。預けた背中から身じろぎの振動が伝わり、若干まどろみながらも、少女の言葉に耳を傾けている事を教えてくれた。

「本当はいつでもありうる選択肢だったの、道であったの。だけど、いつの間にか、なかったことにしちゃってたみたいだね」

 背を竜の胴体から離して、くるりと向き直る。
 少し不思議そうに眼を泳がせる竜は確かにギアンで、確かに竜だった。穏やかな表情でこちらを向いて、大地に寝そべりゆったりと今この時を生きる彼は、確かに「竜」でしかなかった。

「ごめんね、ギアン。気づくことが遅すぎて、また助けられなかったよ」

 そう呟いて頭を撫でてあげると、竜は小さく吐息する。グアアと声を発した彼はまるで「落ち込まないで」といっているようで、少女はまたごめんね、と潤んだ眼を細めた。




もう貴方の声を聞けないと思うと、ひどく苦しい。
(ギアンルートではない生きているギアンは、そのまま竜に取り込まれてしまった気がしたのです)





[2012/08/25 - 再録]