雨の音を鬱陶しいと思ったことは一度たりともなかった。夜にひたひたとしずやかに落ちるその合奏は神秘的に鳴り響き、不安を拭いきれないでいた少女の不安を壁にこびり付いた泥と一緒に洗い流してくれる。不器用で優しいあの感覚を、幾分か大人びた少女は今でもよく覚えていた。

「訓練が出来ない!」

 が、それと今の気持ちは別問題だった。体がうずうず落ち着かず、今にも雨の中を飛び込んでいきたいくらい。
 薄いガラスの向こうで地面に叩きつけられる雫を眺め、フェアは腰に指した剣の柄を触ったり離したり指を絡ませたりと弄ぶ。

「少しは休もうとは思わないのかい」
「調子が狂うの。こればかりは譲れないわ」

 厨房から投げられた声にフェアは小さくむくれた。どんなに変だと思われたって、他の方法でこのむずむずが止まるはずがない。家の中には雨が降ってくることはないが、室内で剣を振り回すわけにはいかない。加減を誤って壁を傷つけたら、宿兼食堂の面目が立たないことを、駄目な父よりずっと理解しているつもりだった。

「それに、ギアンだってかなり働いてるんだから。あなたこそ休憩中くらい休みなさいよ」

 視線を斜め後ろに移動させ、フェアを厨房から追い出した張本人を探す。目では捉えられなかったが、代わりに器具がぶつかり合う音が耳に入り込み、ギアンが何かを作っていると知らせてくれた。別に奇妙な実験を執り行う人柄ではないので不安はないが、何をしているのかを知っていても少し気になる。
 空はまだ雲の錘を減らすように、一方的に大地へ慈雨を授けて続けていた。当分止みそうにない。

「君ほどじゃないさ」

 そんな事を言いつつも、幼馴染の姉弟がいないときには接客をほぼひとりでになってくれるようになったし、元々器用なのか、盛り付け等もそつなくこなしてくれる。仕事量はもはや自分を超えているとフェアは思う。少なくとも給金以上忙しく駆けずり回っているのは確かだった。

「倒れたりしたら困るんだけど」
「フェアが倒れてしまった方が大変だと思っているんだが、間違いかな」

 早速口では勝てないと心得たフェアは窓から離れ、昼後もっぱら友人達の定席になるテーブルの椅子に座り込む。厨房が筒抜けのそこは相対的に外との境が遠くなる。食堂へ直通の扉は開けっ放しなので、フェアはそこからでも外の様子を眺められた。
 雨音と厨房から聞こえてくる小さな衝突音が鼓膜を叩いて心地よい。空気は湿っているが、静かで落ち着いた昼下がりだった。

「それに、ボクは有意義な休憩をするために、こうしていたんだからね」

 かちゃり、と小さく音を立てて盆をテーブルに置いたギアンに視線をずらす。そんなにへそを曲げられてはたまらない、といいたそうに肩をすくめた。

「別に、怒っているわけじゃないわよ」
「それはいいことだ。ボクとて、もう怒られるのはごめんだ」

 大仰な振る舞いをして見せながらも、ギアンは盆の上に陳列するポットと二つのティーカップを手際よく動かしている。ポットを傾け、ティーカップへ鮮やかな茶色の液体を淹れ、フェアの前へ差し出す。
 同じようにもう一つのカップへ紅茶を注いでいる間に、フェアは受け取った一定の温度を保ったカップを両手で支え、鼻腔をくすぐる優しい香りに息を零した。
 これで味もいいのだから文句のつけようもない。非の打ち所がない紅茶をゆっくり口に含んだ。ふんわり上品な味がする。

「どうだい」
「おいしい。すごいな、茶葉は同じなのに」

 ギアンはフェアの対面に座り、楽しそうに応対する。目許は敵対していた頃の刺々しいものではなくなり、柔らかい。

「それはよかった。今日は天気もまあまあだからね」
「そうね。悪くはないんだけれど、やっぱり訓練できないのは不満だわ」

 間違っても今の天気は良いとはいえないような雨具合なのだが、二人には大した事柄ではない。どちらも雨は嫌いではなく、むしろ静かに奏でる音が好きなのだった。
 だから天気はまあまあで、悪いというのはあくまでどんより曇ったときだけだった。あれは晴れの時みたいに洗濯物は乾かないし、雨が降って静寂を満たすこともない。何も得なことがないから曇りはフェアにとって一番悪い天気だった。
 無論、こんな事を幼馴染が聞いたら「変なの」と怪訝な眼つきで切り捨てられるだけだから、彼女らの前で口に出すことはないのだが。

「まあ、ゆっくり休むといいよ。頑張りすぎるのだから、君は」

 心配してくれているのかな、とフェアは少しそう感じた。表立って現すことは少ないけれど、ギアンがとても優しい人だとフェアは思っている。
 ふと、その感覚に類似した何かをフェアは知っているような気がした。ずっと前に、そう、今よりずっと小さくて、毎日のように泣いてばかりいたあの頃の。
 返事をほっぽりだしてフェアは頭をひねる。何か、何か手がかりがあればすぐにつかめそうな、もどかしい位置に答えがあるような気がする。
 それが何かを探ってカップに揺らめく自分の顔を見て、返答がないことに何か気に障った事を言ってしまったのかと若干困惑顔を見せるギアンを見て、食堂内に視線を走らせ、外で大合奏を繰り広げるそれを目に留めたときに、小さく声を落とした。そうだ、これ。

「すごく似てる」
「……なにが?」
「何でもない」

 フェアは一人納得して、置いてきぼりのギアンに小さく笑んで、カップに残る紅茶を再度すする。淹れた人物とはまた違う、優しい感覚に笑みを零しながら。




 彼は私を支えてくれた、あの雨音と同じだった。








(ギアンはフェアより繊細に紅茶を淹れそう)
[2012/08/25 - 再録]