いってらっしゃい。

 どう考えても自分たちが言うべきものであった門出の言葉を敢えて口にした女の人は、それを最後にこの世界から発っていきました。
 誰もが望んだ結末は手に取らず、誰もが欲しがらなかった別れを抱きしめ、世界の存続に満足そうな、けれど寂しそうにも見える笑顔で。




 世界から離れ、眠りにつこうとする仲間に届くよう張り上げた声は、振り上げた拳と共に澄んだ蒼の空を突き刺し、大地へ戻ることなく雲や空気に吸い込まれていく。
 強くしなやかな想いはきっと、去り行くあの人に届いたであろうと少年は信じることが出来た。
 彼女の最後の望みが笑って送ることであるならば、少年の彼女へ託す願いは、仲間が抱いている想い全てを今の掛け声を糧に、一つの思い出として彼女自身に焼き付けてもらうことだった。
 なんておこがましい願いであるのだろうと少年は失笑し、拳をずっと上げているわけにもいかないので、仲間に習いゆるゆると下ろす。

 保ち続けていた自己を吐き出すように息をつく少女に、約束を果たし脱力気味にしゃがみこむ少年、伏せた瞳に流しきれなかった涙を溜める少女も、みんながみんな胸を突く痛みを不器用に受け止めているに違いない。
 それを強要したのは、他でもない自分たち自身であるのだから。

「もちょっと、ここにいよ」

 詰まりがちに短く呟かれる少女の言も、もはやそれは確認を意味していて、皆それを分かっているからこそ、必要最低限の単語で生返事を返したり、僅かに頷くだけに留まった。
 茶化す声も強気に振舞う健気な音も飛び交うことなく静寂に包まれる。
 それでも空気はとても優しく暖かく、崩れそうになる自分たちを支えていてくれている。まるであの人そのものであった。

 ありがとうと、いえなかった。

 あの人はあんなにもひたむきな声で一人一人に囁いてくれたというのに、少年は拗ねていただけであった。
 しょうもなく泣きつきながらいかないでと繰り返し、最後の最後で涙でぐしゃぐしゃになった顔で笑みを作っただけだった。
 それさえも自分の意思というわけではなく、銀髪の少年があの人の想いを尊重した事によって。

 自分はそんなに強い人間ではないと少年はずっと昔から自覚していたが、予想をはるかに超えるくらい少年の心は脆かった。
 三兄弟をはじめとする「家族」に、大事に大事に護られていて、だからこそ少し驕り高ぶることが出来て、この始末。
 情けなくて情けなくて、少年は視界のぼやけを遮ることが出来なかった。

 少年は見上げる形を崩さずにゆっくりと眼を瞑る。意識を耳に、肌に向けて、体全体で世界に住まう何かを感じようとした。
 どこかに彼女の何かが残っているかもしれない、残っていないわけがない。

「もうそろそろ、行くか」

 海の意思の息づいている音やおおらかに語りかけられる声を理解しようとしていると、未練の残った声で銀髪の少年が仲間の背を押す。
「でも、」と名残惜しい思いを見え隠れさせる少女に、「また来よう、あいつを枯れさせるわけにはいかないだろ」とあの人が植えた種の芽を指差した。
 精霊と総称されるらしい、ふわふわと芽の上に浮かぶ輝きが複雑そうにこちらに視線を振る。
 それが心配なのか哀れみなのか、はたまたあの人をこの地にとどめられなかった自分たちへのやるせない思いなのかはわからない。

「そうですね、今から戻り始めても、町に着く時には日が暮れていると思いますし」

 言葉に詰まった少女に駄目押しのように声を被せ、ちらりと銀髪の少年を見やると柔らかい困惑顔を向けていた。
 まるでこいつからにだけは賛成の意を出してもらえないと思い込んでいたように、眼が合い苦味を深めた笑みをするリーダーに、小さく肩をすくめてみせる。どうやら知らない間に心配させていたようだった。

 誰からともなく台座から遠のき始め、発破をかけたくせに足を進めようとしない少年は、彼らを見送る形になった。
 一瞬ずつ視線を投げる仲間達にすぐ行きますから、と軽く手を振って、足音が段々小さくなっていくのを確認しながら、もう一度空に羨望の眼を向けてみる。

「……いってきます」

 今回声を返すことになったのは少年達だったのだから、次に言葉を交わすときも後手である事を少年は望んだ。
 驚愕で声の出ない自分たちに、いつものほわほわした声でただいまって言ってもらって、我にかえったようにおかえりなさい、と。
 待つべき人が重なることはよくない。待つ苦しさも寂しさも、待ってくれる安心感とやすらぎも分け合う。
 それが「家族」であると、いつの日からか少年は信じていたから。

「どんな形であっても、僕らは覚えていますから。一生忘れてなんてあげませんから」

 だから、あなたも諦めないで。
 神様なのだから、細かいルールなんてあの笑顔で全部壊して、いつか逢いに来てください。
 それが絶対的な壁である事を分かっているのにわざと抗おうとするのは、きっと彼らの諦めの悪さが少年自身にも染みてきているのだと、少年は何回も苦笑を繰り返しながら、いい加減足音の絶えてしまった階段下に向けて駆け出した。








(寂しいけれど、ただ立ち止まっていると、あの人は心を痛めるだろうから)
[2012/08/25 - 再録]