あの澄んだ空が彼の命を吸い取ってなかったものにしてしまうようで、あの時初めて目の当たりにしてティアなりに大きく感動したことも忘れ、薄い青に心よりの憎しみを覚えた。憎んで恨んで叫んだ彼の名も、剣と音素から生じる風に混ぜこぜにされて、ティアは内心罵声を飛ばす。

 何よ、からのくせに。空っぽで寂しいからって、彼を飲み込まないで。

 押さえ込まれた体がもどかしくて、壁になっている女性恐怖症のはずの青年を睨む。突き刺さる視線を感じているはずなのに振り向くことなく、青年にとっては後ろで起こっている事を一瞬たりとも見逃さないよう、真剣で複雑な表情を浮かべながら遠目に眺めていた。彼だって今にも駆け出したいはずなのだから行けばいいのに、どうなっても遣え人兼友人の意思を尊重するらしく、ティアを押さえる力は強くルークに近づけさせてくれない。まるで現実から眼を反らすなといっているようで、ティアは当然だと一歩無理やり前に押し出す。当然だ。眼を背けずに助け出すのが私のしたいことだ。絶対に死なせない。
 前に歩もうとしたティアに反応して、青年は瞳を反らさずに押し返す。それでもティアは足に力を入れその一歩を退かなかった。たった一歩など、あの生に執着を持つようになってきた幼い青年に近づいたというにはあまりにも過剰評価だけれど、ほんの少しでも距離を狭めた方が声は届きやすい。暴れる髪を乱雑に押さえつけ、ティアは風に乗る空気を体に吸収させる。からなのに人を満たそうとする無謀な心に、ティアは小さく哂った。ありがとう、少しは落ち着いた。
 一度全部空気を吐き出して中身がなくなってから、一気に飛んできた新しいものを体に溜め、ティアは風に攫われないようしっかりと声を張り上げる。もはや馴染みの唄を突然謳いだしたティアに、青年は眼を見開き初めてルークから眼を反らした。それに構わずティアは、昔々に作られた預言者の譜歌を塔に轟かせる。全部を知っているわけじゃない。けれど今のティアにできることといったらそれしか思いつかなかった。けれど未完成の讃頌でも何か彼に与えてくれると信じている。信じているからこそ謳うのだ。これが出来るのは自分だけだから。どうか彼に生きる奇跡を、生きるという一つの幸福を。
 第一譜歌が終わりを告げて第二の旋律に移り行く際、赤髪を長く垂らした青年が今にも消えてしまいそうな焔の光に駆け寄り、罵声を飛び交わせ剣に手を伸ばす。その過程の間にもティアの知っている範囲内ギリギリの第に入っていて、多分ひねくれたオリジナルの力でルークはまだ生を取り逃がさないのだと確信めいた事を感じて、ゆっくりゆっくりと最後の節を謳いきった。




* * *




――死にたくない死にたくない死にたく、ない。
 ただただ同じ事を同じように心から悲鳴を上げてルークは剣を振り放せずにいた。俺は僕らは死にたくない。けれど世界が死んだら私達は問答無用で生の路を切り離される。同士達のために死ぬんだ希望を繋ぐんだそれはいい事なのだろうか?
 それが本当にいいことなのかはルークに分からなかった。それを知るにはあまりにも短い時間しかこの世に触れる事はなかったし、きっと何十年何百年生きたって分からないものだと思う。だから仕方なく、それしか方法がなかったから、と自分に言い訳している部分が大きすぎて、本当の想いが潰れているのかもしれない。
 だからといってその「仕方ない」は、曲がりなりにも世界を消したくないからと切に願っているからで、なにより自分を自分だと認めてくれた人や大切な人、生きとし生けるものが大好きだからとまではいえないが、居て欲しいとは思ってる。もしかしたら罪滅ぼしと自分を清算しようとしている箇所もあるかもしれない。
 この塔は眩暈を起こすくらいに高く高く聳え立っていて、空をつかめるかもと、あるいは心躍らせていたかもしれなかったが、そんな余裕などここに訪れる度に押しつぶされて、呑気に思いを馳せることなく今回も一段と消えうせている。はずなのだが、死から逃れたいともがく片隅で手を伸ばしてもいいかなあ、ととんでもなく穏やかな日常のような事を、麻痺していると思われる頭で考えていた。
 そんな思考の端で、剣にレプリカたちの音素が喰われて吸収し、ルークの音素も飲み込まれていくのを自覚する。それで少しは足しになっているはずなのに、なんだかどんどん抜けていく感覚がした。先程までの空への思いは風に攫われ、情けなくも泣きそうになりながら手に込める力を強めた。彼女達の命をなかったものにしないでください。生を捨ててまで護ろうとした魂で、どうか世界に住まう魔物を消し去って。

 俺では無理なのか。成立しない出来損ないのレプリカでは。
 段々力が抜けてきてまた空の事をおぼろげになる頭で思い出し、今手を伸ばせば空に溶け込めると思った。責任逃れには丁度いいかなとこそこそと逃げ回ろうとして剣から多くの血に染まった手を離そうとした時、自分宛の罵声が飛んだ。ぶつぶつ文句をぶつけられ遠のく意識がルークの元に戻り、その拍子に澄んで聞き慣れた唄が耳に届いた。いつもいつでも助けてくれる、気高き華のような律の譜音。
 近づいて剣に手を置いた青年と短い言い合いを交わし一言ありがとう、と呟いた。力を貸してくれた青年に、世界と自分を繋げてくれた彼女に。





[2012/08/25 - 再録]








 砂に埋まった顔を引き上げる。すぐさま顔に張り付いた砂を払おうとするも、そもそも手の平も手の甲も砂まみれだということに額から顎まで何度か行き来した後で気づき、どう考えたって逆効果に違いなく、無意識に溜息が漏れた。目にかかるじくじくした痛みを堪えつつ、しかたなく(幾らかはましだと思いたい)袖で拭う。
 舌打ち直後、渇いた喉にざらざらと不快な感触がここぞとばかりに台頭してきて気分が悪い。空気に触れた箇所から砂に変わって崩れていくような気さえするのは多分きっと間違いなく、辺り一帯砂で埋め尽くされた空間に居過ぎたためだ。できることなら、今日という日が終わりを告げる前には確かな「土」の道に足を置きたい。

「大丈夫なの?」

 余分な装飾を挟まない簡素な文句の音源に薄目を向けると、水筒がだいぶ近くにあって若干焦った。なんとなく悔しいので顔に出さないよう努力をしたいところだが、今はそれどころじゃない。瞬きするたびに瞼の裏を躍動する奴らから主導権を奪取するのが先決だと、脳が勝手に行動順を決めていた。

「あー、さんきゅ」

 ティアからしっかりと手渡しされた水筒で口を濯ぎ、目の砂を流し落とす。砂漠のような水分の補給が困難な場所では過度の使用を避けるのだと、以前から耳うるさく指摘されて、この頃ようやく理解したので顔全体に浴びせるのは控えた。
 その間にも、ティアが体中に纏わりついた砂や小石を適当に叩き落としてくれていた。こそばゆいような恥ずかしいような情けないような気分とともに、まるで母上みたいだなあとか思った自分の首を、どうしてだかちょっと締めたくなった。





[2012/08/25 - 再録]








「――たかった」

 仲間達が買い物から帰って来次第、ここを発つと連絡を入れてティアは部屋から退出しようとした矢先、消え入るような声が背後からかけられた。話を無視することはティアの人間的条件に反する行為だったので、反射的に扉前で足を止める。

「できることなら、いきたかった」

 ギリギリティアの耳に届く範囲の音量がいやに鼓膜に残る。びくりと肩を揺らす。声を返すことが出来なかった。ただそこにとどまって、言いたい事を出来るだけ吐き出せるようにすることくらいしか、ティアには出来なかった。
 その言葉は七年の月日しかこの大地で息づいていない幼い命には重すぎる言葉だとティアは今になって痛感する。誰よりも何よりも生きることへの執着を学んだはずなのに、彼は充分その意味を理解しているのに、自分自身をこの大地に捧げようとしていた。その代償で再生される世界が自分以上の価値があると勝手に思い込んでいるのかもしれない。

「生きたい。いきさせてくれ」

 仲間達の前ではこらえている本音が時折ティアの前では零れることがある。あの時のように、僅かに私たちがもっていたたずなを切り捨てられる事を恐れているのだろうか。確かにあの時のたずなの先にかかる彼の重さは軽すぎた。ふわふわ浮かぶシャボン玉のように儚い絆、それを切り裂くのは大半にとっては至って簡単なこと。それほど痛くも痒くもない、ただ落とした事実をほんの少しだけ覚えているだけ。

「俺の手は汚れてるけど、みんなといっしょにいきたいんだ」

 拙い言葉はそれこそ小さな命の重みを完全には理解できていない子どものもの。けれど彼はその言の重みをよくその身に焼き付けている。
 今の彼はティアたちにとって、とても大きかった。あの時捨てても何も感じなかった彼は、今では手放せない大切な宝物の一つ、仲間の中心だった。大きすぎたのだ。存在、力、発言、魂、何もかもが。だからまだおぼつかない足取りがひずみに引っかかり広がりつつある穴を埋めるように運命だと諦めて重力に逆らわない。生きたいと心より思っていたって会った当初のずうずうしさを失った今、涙を見せつつ堕ちていく、無自覚に死に近づこうとする。それで誰が助かるのかなんて具体的なことは考えず、きっと誰かを助けられると信じて疑わずに何か誰かの大切なものを護っていく。その優しい重みを、私たちがどう支えろと。

「どうか見捨てないで、忘れないで、生きる場所をください。みんなをたすけて、それでいきて、しあわせだといえるようなじかんをください」

 貴方の場所はたくさんあるのにとティアはいいたかった。ただそれを囁かせてもらえるくらいの空気の隙がない。どうしようもなく扉の前で立ち尽くしているだけだった。
 彼は自分で手に入れた場所をたくさん持っているはずだった。バチカルやグランコクマ、それに私たちの隣他にも色々。もしかしたらおせっかいでどこかの誰かに全部場所を明け渡してしまったのかしらと首を傾げてから、ティアは堪らず今にも涙で融けていきそうな青年を抱きしめた。

「誰も見捨てないわ。みんな、貴方の手を離さないから」

 びくりと青年は肩を揺らしたのをティアは腕から感じ取る。ほら、生きて動いてる、ここにいる、どこにも逝かせない。
 ありがとうと嗚咽と共に途切れ途切れに吐き出した青年の声を聞きながら、遠い塔への旅路の知らせが来るまでティアはただ彼の震えがおさまるように抱きしめ続けた。
 一緒に生きて逝こう、どうか勝手に死に急がないで。
 こんなことは二度も三度も続かないようにと、ティアは世界で願いを叶えてくれるかもしれない誰かに祈りを送った。預言の存在がある故に遠い昔に消え去ってしまったかもしれない何かに。





[2012/08/25 - 再録]








 両手をめいっぱい広げて、そのまま後ろへ倒れこむ。少し怖かったけど、受身も取らなかった。
 地面と衝突したその振動さえも楽しみながら、深呼吸。一面に埋め尽くされた雑草の匂いが新鮮に思えた。

「どうしたの、そんなところで」

 瞑りかけた瞼を押し上げると、空を背景にしてルークを覗き込むように屈んだティアの姿があった。
 顔にティアの影が落ちて少し暗い。

「一回やってみたかったんだ。草原にねっころがるの」

 風に攫われる長髪を耳元で押さえてティアは不思議そうに眼を瞬いた。おかしいことをしているのだろうか、とルークの心のどこかでもやが噴き出す。それを抑えたくて、とっさに「変か?」と問いかける。

「いいえ。ただ、昔のあなただったら絶対言わないと思って」

 昔の自分はこんなことは言うはずがなかったらしい。確かにそんな気もする。あの頃は無闇に汚れるのをひどく避けていた。言われるまで考えもしなかった事をティアに指摘されて、本当に見守っててくれたんだなと思うとなんだか照れくさくて、「そうか?」とからから笑った。
 どさり、と割と近くから音がした。首を曲げるとすぐ近くにティアの横顔があって心臓が飛び跳ねた。思わずあげそうになった声をすんでのところで飲み込む。

「そら、きれいね」

 目の前に広がるそれと同系色のティアの瞳も同じくらい綺麗だ、と日記に書くときくらい素直にいえたら、どんな反応をしてくれるのだろうと少し考える。今のルークくらいの、かすかな朱に染まる戸惑った顔が脳裏に浮かんだ。





[2012/08/25 - 再録]