背筋に汗が滲む。頬に張り付いた髪を振り払うにも手を持ち上げることが億劫で仕方なく、べたついたまま放置した。意識が途切れたりふと醒めたりと安定しない状態がどのくらい続いているのか、ナタリアは分からなかった。薄く開いた瞼からは、ぼんやりとした照明灯の光しか入らない。
 おぼろげな意識の中、ノックの音が聞こえたような気がした。確証がなかったので顔だけを扉の方へ向ける。瞳は隠されたままだった。

「ナタリア、入ってもいいか」

 少しの間が空いてから、再度のノックと共に気遣わしげな声が投げられた。今度は明確にナタリアの鼓膜を打ち鳴らし、脳へと情報が届く。声変わりのしていない、気品を感じさせる聞きなれたものだった。
 がらがらの喉から押しだした了承の声は思いの他か細く、へろへろと墜落していった。聞こえたのだろうか、と不安になりもう一度口を開きかけた時、そっと扉の放たれる音が耳に届く。だるくもたれた瞼を押し上げ焦点を彷徨わせると、夕日色が網膜を刺激した。

「熱が出たって、聞いたから」

 気づかないうちにベット際まで来ていた夕日色の少年が詰まりがちに呟いた。それとともに、ナタリアの額にひやりと冷たいものが被さり「少し熱い、か」と幾分か落胆が含まれた言葉が優しく降り注ぐ。

「ごめ、ね」

 上手く言葉が紡げなくも、少年には充分意味が通じたようだった。眼を見開いて表情を優しく崩し、ナタリアの頭を撫でる。額の体温を引き継いだ少年の掌は、ひどく心地良かった。





[2012/08/25 - 再録]








 言葉尻をとられてはいけない、いつでも完璧なる所作で隙を見せない。少年が父から教わったのはそういう類のことばかりで、それでも反発することなく期待に答えようとしたのは、いつか「よくやった」と僅かに口の端を上げながら頭を撫でてくれるかもしれないと淡い希望を抱いていたからだった。

「疲れているの?」

 不安げに顔を覗きこんできた少女は声にも心配そうな色を滲ませていた。少年はしまった、と思いながらも、幻想を振り飛ばすように頭を横に振る。大切な人に気を揉ませたことへの自責が、今までに溜め込まれた釈然としないものや悲しさのようなものたちの上に降り積もっていく。

「いや、少し考え事をしていたんだ。すまない、ナタリアと一緒にいるのに」

 傾げかけた首を自然体に戻しながら、少女は満面の笑みを浮かべた。あどけなさに気品を垂らしたような、快活であるも柔らかいそれに癖のある金髪が少しだけかかる。無意識に少女の顔へ手が伸びた。

「気にしないで。ルークはすぐに、考え事から戻ってきてくれるもの」

 頬に触れた少年の指をくすぐったそうにしながら、少女は少し体を揺らす。椅子から垂れた足が前後にぶらつくのが視界の端に映り、少年は照れ隠しみたいに苦笑した。





[2012/08/25 - 再録]








 手から滑り落ちたそれは当たり前に砕け、きらきらと光を乱射させながら何度も何度も跳ね返る。その度に細やかになっていく音が、なぜか永遠に続くような気がした。

「ちょ、大丈夫か、ナタリア」

 隣で淡々と作業とこなしていた(ナタリアに割り振られた役割は野菜の皮をむくことと簡単な盛り付けだけだったので、さぞ負担が大きかっただろう)ルークが大きく肩を飛び上がらせ、足元に広がる硝子の欠片とナタリアの掌を交互に見る。見られた両手をナタリアも視界に入れてみたが特に異常はない。敢えて言うならいつにもましてまっしろに感じるだけだ。血の気でも引いたのだろうかと、自分のことなのに他人事のように考えてしまう。

「ご、ごめんなさい、割ってしまいましたわ」 「あー、いいからとりあえず動くな、怪我する。……どうしたんだ」
「いえ、なんでもないですわ。ただ、お父様が喜んでくれるか考えていただけですの」

 口から出てきた言葉は、少なくともナタリアにはいつもの声で語られているように思えるくらい。けれど少しだけうすっぺらくて平坦で無機質。それに気づいたのか他の疑惑があったのか、ルークは少し不安げに「そうか」とだけ呟き、部屋の端に追いやられている箱(名称は分からなかったけど、とりあえず形は四角い)へ、箒やちりとりを取りに行ってくれた。 





[2012/08/25 - 再録]








「明日の準備が終わりましたら、ぜひ私のところへいらっしゃってくださいませ。お茶をしましょう」

 そういい残していつできるようになったのかわからない軽い足取りのステップでぱこぱこと肩掛けかばんを鳴らしながら、従者を遠慮なく戸惑わせて少女は去っていった。ふわふわと戯れる金髪が見えなくなってから、少年はそんなに心躍ることなのかと苦笑しつつ自室に足を運び始める。
 変わらず豪奢な装飾で彩られた廊下の真ん中を堂々と歩き、その堂々とした姿に兵やメイドが感嘆の声を漏らすのを小耳に挟む。少年にとっては自分の家なのだから臆しているほうがおかしいと思うのだが、その常識のはずの見解はこれには適応されないらしい。そんな結構くだらない部類に入る思考をのろのろと続けながら、部屋の扉を開け放つと同時に小さな思いごと考えを吹き飛ばした。
 部屋に足を踏み入れてすぐに、少年にとっては中途半端に、普通の人間から見たら大変綺麗にまとめられた明日の荷を迷いなく詰め込みにかかった。どれも必要最低限に抑えるとどうしてもなくてはならないものばかりで、少年は頭の中心でその中でも使わないかもしれないものを推測し、ばこばこパズルのように当てはめていく。そんな風に行動しつつ少年は器用に頭の片隅で一つの童謡をなんとなく思い出していた。中途半端なリズムが逆に忘れられない、なかなか個性的な曲で、では歌詞の意味は何だったのだろうかと思考が移る前に荷物は小さくまとまり、今しがた交わした小さな約束を守るべく少年はさっさと歌のことなど忘れ去って、来た道を辿っていった。




 少年特有の少し高めのボーイソプラノの声で扉越しに呼びかけられ、ナタリアはびくりと肩を震わせ掴んでいた缶詰を取り落とし、控えめな騒音を奏でた後すぐに顔をほころばせた。

「どうぞお入りください」

 振り返りながら立ち上がり扉に駆け寄ったが、手を伸ばす前に小さな軋みを荒立て勝手に開くのを感じ、ナタリアはひゃっと短い悲鳴を上げて一歩退いた。それに呼応して扉がぴたりと止まりすうーと顔を覗かせたルークは声に驚いたのか、ぽかりと口を開けてナタリアを凝視する。

「ご、ごめんなさい」
「――え、ああ。こちらこそ」

 なんともいえない間を取ってから、必死に笑いを抑えている兵に釣られて二人は小さく笑いあった。貴族の友達と、もしくは大切な人とする、ささやかでいて上品な微笑みで。

「そちらに座って下さいまし」
「ありがとう」

 どちらにとっても見慣れたナタリアの部屋の一角を占めるふかふかのベッドをナタリアは指差して、申し訳なさそうな顔色を少しだけ残してにっこりと笑んだ。

「ごめんなさい、貴方がこんなにも早くいらっしゃるとは思いませんでしたから」

 もう下がってよろしいですとルークを導いてきた(そんな事しなくても彼に限って迷うことなどないのだが、やはり建前はいるらしい)鎧をまとった兵に退室を命じた。敬意のある礼を深々として兵は素直になるべく粗相を、この場合は音を立てないように扉を閉じた。かなり大きな扉の閉まる音と兵の小さな後悔の念が耳に吸い付いてきたが、ナタリアはそんな些細なことは気にすることなく足音だけに耳を傾けて充分遠のいたと判断してから、ふわりと金髪をたゆたわせルークに向き直った。

「まだ用意が出来ていないの。明日の準備も、お茶の方も」

 がらりと口調を変えナタリアは正直に白状した。白状しなくても珍しい部屋の乱れ具合ですぐに察せられるのだが。

「早く来すぎてすまない、手伝うか?」

 ベッドに腰を降ろしたルークは大丈夫だというように頷いて一つ提案した。早く済ませるにはそれが一番いいし、彼の力を借りれば一人で詰め込むよりずっと綺麗に収まることもナタリアは充分知っている。

「いいえ、大丈夫。もうちょっとで終わりますから」

 それでもやはり彼の手を煩わせるのは気が引けた。ナタリアは笑みを絶やさずやんわりと申し出を断り「ありがとう」と付け加える。ルークはそうかとまた一つ頷いて、ナタリアはそれを確認してから缶詰を落とした位置に座り込み、ナタリアは自身の足から肩までの高さを誇ったトランクに物々を一つ一つ丁寧に詰め込みだした。

「……ちょっと聞いてもいいか?」
「なあに?」

 お出かけがテーマになった童謡を気持ちよく歌い始めて数秒後、中身がぐちゃぐちゃになっていたらどうしようと今まで忘れていた事件を思い出し、さまざまな事を危惧してとりあえずトランクの下のほうにそっと入れ込もうとした更に数刻後。不可解なものを見るような目でルークがナタリアの動きを自然と止めた。不思議そうに眼を真ん丸く開きながらナタリアはルークを見やる。

「何でそんなに大きいんだ」

 最初何が大きいのか分からずナタリアは首を傾げた。それからルークが視線で示したその先にあるものを見てトランクのことだと理解する。

「ああ、おんなのこには何かと入用なものが多いからってお父様が」
「……じゃあ缶詰は」
「美味しいからもっていきなさいって叔母様が。ああ、そうだわ。落としてしまった事を謝らないと」

 今しがた自分が犯した失態にようやく現実味が増してああ、と大仰に落胆した。子どもがよくする無駄に大きな動作でナタリアはまるで腫れ物を触るかのようにそおっと缶詰を手で包む。

「……楽しいか?」
「楽しくないの?」

 今までとうって変わってナタリアは怖々と問い返した。心を満たしていた高揚感が意地悪な悪魔によって一掃されて、代わりにあったはずのものをぽっかりと全部丸ごと失ってしまった悲しみが滲み出てきた。もしかすると悪魔は意地悪なだけではなくけちんぼで、その開きすぎた空間に悲しみさえも取り除いてしまったのかもしれない。もしくはただ単に悲しみさえもが物怖じして逃げ去って、無が延々と広がっているだけなのかも。

「いや、それはないけど。どうしてそこまで楽しそうに出来るのかなって」

 俺にはなかなか出来ないから、とルークは苦笑して自分の欠点を暴露しているように肩をすくめた。動作の一つ一つが優雅で伸びやかで美しくて。それはいつも変わらないらしく自嘲気味の言い草もはっとするくらい綺麗だった。

「じゃあ、歌いましょう」
「歌?」

 意外そうに眼を瞬かせルークは首を傾げた。話の飛び方が恐ろしく急で、ついていけなかったようだ。

「そう、歌。歌えばきっと楽しいわ」

 とてもすごい名案を思いついてナタリアは微笑んだ。実は悪魔は少しだけ優しくて先ほどの高揚感とはまた違った暖かな物を運んできてくれたらしい。ほわほわの空気がナタリアにとって何よりも心地よかった。
 困惑するルークにもう一度微笑みかけ、ナタリアは大きく口を開けて歌いだした。先ほど歌いかけて止めた童謡。旅にでて新しいものをたくさん見つけ出す夢と希望に満ちた歌詞。ナタリアのソプラノの声が部屋を満たし、二番にはいる所でルークに目配せした。ルークは少しためらいつつ視線を曲げて、中盤に差し掛かったところで結局折れた。ルークは躊躇いがちに小さく呟くように声を紡ぐ。ぶつぶつとした声がいつしか楽しそうにハミングして、どんどん耳に届く声の大きさが変わっていく。ナタリアは一つ満足そうに頷きルークの声を消さないように、自分の声が消えないように自身の喉を大きく震わせた。





[2012/08/25 - 再録]








 もう一度世界に逢いたい。
 ナタリアはぶすっと顔を膨らませ門限払いをした幼馴染であり婚約者である背中が屋敷に吸い込まれていく様を眺め、時々思ってしまうことをいつにもまして強く思った。そんな事をしたって現状は何も変わらないことは重々承知で、ナタリアは困惑の色を隠せずにいるファブレ邸の兵に軽く会釈をしてきびすを返す。なるべくいつもの、しゃんとしたナタリア殿下を演じつつも響く足音は少々重い。
 もう一度あの世界に逢いたい。あのひと時ひと時が幸せだった日々を返して。わたしたちの誓いが地に根付いているあの頃の延長戦の世界に、わたしを。
 空中庭園を横切り頭を垂れる兵に挨拶を投げ、肩より上でふわふわしている金髪を揺らし、そんな事をナタリアは思った。大好きだったのだ、あの人の世界を見る眼も思考も優しさも。それが根こそぎ誰かに持っていかれて、嫌みったらしく悪い魔物の胃に押し込んでしまった。どうやったら、誰が返してくれるのだろうと最近よく思うようになってきていた。どうしてもあの性格の豹変ぶりについていけなくて、もう記憶が戻らないのではないかと少し弱気になっているだけかもしれない。それならまだわたくしはわたくしとしてたっていられると思うのだけれど、と若干危うい思考を巡らす。

「まだ、わたくしはたっておりますわ」

 自身に確認するかのように、ナタリアは両手拳を握る。ゆっくりと拳を解くと少し掌が湿っていた。

「わたくしはこうやって、拳を作って開く動作を見届けられる」

 それならルークが記憶を取り戻すまでじっと耐えて、待っている事ができる。そう、思い込める。
 けれど。
 けれど、このかんかくはなんなのでしょう。
 ナタリアはいまだに拭いきれない何か大切な、小さな何かを見逃しているような違和感を感じつつも、高く聳える自らの住まいに足を運んだ。明日から、また頑張るんだと小さな体の中で誓いながら。





[2012/08/25 - 再録]








 外は雨が降っていた。
 だからといって梯子を降りる手足を止めることもできず、心持ち早めに下っていく。濡れて頬にべったりと張り付く髪を振り払うのも後にして、滑らないよう細心の注意を払いながら。
 やがて短くも長くもない梯子は終わりを告げ、ナタリアはぬかるんだ土の上に身を置いた。ふにゃりとしたなんとも奇妙な感触が足から伝う。それに顔をわずかにしかめつつ横に移動した。上部にはまだ降りてきていない婚約者たちがいる。彼らが降り終えるまでもう少しかかりそうだった。
 そんなことを思いながら、梯子を降りている頃にちらりと盗み見た時から気になっていた、巨大な移動機関と鎧をまとった兵士の大群に眼を向ける。白と茶をベースにした落ち着きのある色合いの装甲艦。あれは確か、マルクト軍のものだったような気がする。名前は――分からない。なぜこんなところにあるのだろう。それもわからなかった。ただ、あの兵士達はダアトのローレライ教団所属ということは見て取れる。ということは大詠士派の者に待ち伏せされていたのだろうか――。

「おい、あれは!?」

 いつのまに梯子を下り終えていたのか、ナタリアの前にいたルークが声を荒げて言った。
 意外なところで会ったと見開く翡翠の瞳は巨大な戦艦でも大勢の教団兵でもなく、その中心に捕らえられている緑がかった黒髪の少年に向けられている。

「イオンさまっ!」

 人形で戦う少女――たしか、アニスだったような気がする。その子が必死の形相で少年を呼んだ。今にも駆け出しそうな勢いを、ジェイドというマルクト軍の大佐がアニスの前に手を出して押さえつけていた。ほんの一瞬だけ焦りのようなものがジェイドの顔に現れたけれどすぐに引っ込んでなくなっていった。

「イオンを、返せーー!!」

 叫びながらルークは走り出していた。長い赤髪が雨に打たれながらもゆらゆらとたゆたう。一拍置いてナタリアは止めようと足が一歩前に出たがルークの向かう先を見、すぐに引っ込めた。引きつらせた顔の頬に滴が伝う。それが汗なのかただの雨水なのかはよく分からなかった。

「お前か!」

 聞こえた声にナタリアはびくっと肩を震わせた。ルークの声ではない。けれど、ルークの声だった。発したのは教団の者らしい、赤い髪の――。
 ナタリアは息を呑んだ。心臓は激しく波打ち、脳内に彩り豊かな幼少時代の記憶が蘇る。幸せだった日々の、大好きな人のあの声色と同じもののように思えた。
 剣戟が数回鳴り響いた後、キムラスカの親善大使と酷似した名も分からない男は何かを言い放ち、濡れた髪を掻き揚げて装甲艦に乗り込んでいったが、何を言っていたのかナタリアには聞こえなかった。ただその場に居竦まり、震える手を口元に当てる。耳の神経だけが取り攫われたかのように雨音やこれから共に旅をする者達の会話さえも感じることはなかった。

 分からない事が多すぎて、頭の中がぐちゃぐちゃだった。
 また頬に滴が伝い地に落ちる。これは雨水なのか、それとも。





[2012/08/25 - 再録]








 周囲から湧き上がる賑やかを通り越した喧騒。屋台に並ぶ定番食品や甘い菓子の入り混じった匂い。衣服を通して感じる人々の熱気。そして、鮮やかに彩られる色たちが交錯。あまりにも多くの情報が頭の中に直接押し寄せるのでうかつにも一瞬眩暈がした。

「あら、顔色が悪いですわよ? 少し休んだ方が良いですわ」
「いや、大丈夫だ」

 隣から飛んだ気遣いにやんわりと断りの声を入れながら、自嘲が浮かぶのを認識する。他はともかく、多彩な色付けには否が応にも慣れさせられたはずなのに、時の経過とは恐ろしいものだ。

「行くぞ。時間がない」

 どうしてだか分からないがするりと口からでまかせが付属してしまった。辺りの歓喜のざわめきに飲まれてくれればいいと呟いた本人にしては勝手な希望を持ちながら、「はぐれないように」と一言添えてから、隣で青年の顔を覗き込む王女の手を取った。





[2012/08/25 - 再録]








「行かないで」

 ずっと喉に詰まらせたまま終わらせようとした言葉を、ナタリアはついに零してしまった。言霊は律儀にナタリアの口から飛び出たまま帰ってくることはなく、座り込んだ上質の蒼のソファにあたってのめりこむ。
 消え入りそうにも取れる懇願に、隣で一緒に高く積み上げた積み木に更なる一個を乗せようとしていた少年の手は止まり、困惑顔を浮かべ小さく口を開け、紡ぐ言葉を捜し始める。少年の肩から王家に継がれる赤の髪が気落ちしたように落ち、やり場のなくなった手を脇に下ろす。ナタリアの手にもたれた木製の立方体が、緩んだ力をすり抜けて音を立てつつ床を跳ねる。積み木の一つは床に拒絶されたのだ、とナタリアははじかれた積み木から眼をそらした。空気は重みを持ち、揺さぶる振動が途絶え、ナタリアは歯を食いしばる。
 こんなことをいうんじゃなかった、とナタリアは思わなかった。その言葉を見つける前に、彼の父親の視察に連れ添う少年を会えない悲しみと落胆と、独占できる少年の父への羨望を抱いて離せなかった。
 しょうがないのだ。誰よりも国を愛する少年には願って止まない好機であり、見解を深める大切な事柄。除けて通ることも、あえて避けることのない、少年にとっては嬉しくてたまらないこと。なのに、何で自分は祝福できないの、とナタリアは自身を責める。やっと少しだけ、認められたのだと父上が誘ってくれたのだと、笑みを見せて報告してくれた少年に、どうして笑っておめでとうといえないのだろう。今年の最後を彩る、少年の大進歩なのに。
 ふいに頭のてっぺんに手が乗った。ゆっくり髪をくしゃくしゃにして撫でられていることに気づき、少し視線をあげる。悲しそうな、それでも強い決意だけを残した翠の瞳がナタリアを見ていて、途端に凄く申し訳なく思って、「ごめんね」と呟いてまた俯いた。
 それでも、一緒にいたかったのは変わらない。今年の終わりはどう過ごそうか、パーティを抜け出して、肌寒い風に当てられてでも平原の開放感に浸りにいこうか。毎日毎日考えて、とても楽しみにしていたのは紛れもない事実でしかなかった。
 炎を司る音素によって温められた室内は、外の厳しい寒さを感じさせない。ソファやテーブルの寒色系と暖房器具の中で疼く暖色系が相容れず、それが気に入らなくて炎がむきになっているよう。気を張り過ぎて微弱の風が小さく吹き、もわり、と熱気が首もとの金髪を浮かせた。

「来年の終わりは、絶対ここにいる」

 くしゃり、とナタリアの髪をいじりつつ、年上のお兄さんのような宥めの声色で少年はそういった。鼓膜を振動させた空気の波に反応し、ナタリアは少年の顔を見つめる。少年の絶対は文字通り絶対だ。その事をよく知っているナタリアは顔を明るめ、嬉しくて何回か聞き返す。

「ほんとうに?」
「ああ」
「絶対?」
「もちろん。だから――」

 少年は手中で転がしていた積み木を持て余しながら、一度区切った。

「今年だけ、ごめん。父上が初めて誘ってくれた機会だから」
「……うん。じゃあ、これだけは言わせてね。あけまして――まだあけていないけれど、おめでとうございます。今年、といっても来年だけど、よろしくお願いします」

 ナタリアはぺこりと頭を垂れ上目遣いに少年を見やると、少年はようやく顔の筋肉を緩ませて、「ああ、こちらこそ」と呟く。ぱちぱちと燃える炎が、一際大きく火花を散らした。





[2012/08/25 - 再録]








「ルーク、ルーク」

 なぜかナタリアはある条件の下で勢いよくルークの名を二度繰り返す癖がついているらしく、それは決まって良い事があった、もしくはこれから起こる事を知っているときにするものだった。この頃そのことに気づいたルークは小さく心が弾むのを少しだけ抑え、なるべく顔に出し過ぎないようにする。それはルーク特有の癖で無意識にそんな風になるので、ルーク自身その行動の意味をなかなか理解できていなかった。自分のことさえ分からないなんて情けないなと胸中自嘲しかなりの間を空けてしまったけれどルークは走り寄るナタリアが転ばないことを祈りつつ、こちらもゆっくりと距離を縮める。

「はいこれ! プレゼント、ですわっ」

 控えめな鈴の音を鳴らしつつ充分近づいてナタリアは息を整えることなく若干ぶれのある声でそんな事をのたまい、すっと両手を広げてルークの前へ出した。ルークはそれに眼を落とす前に首を傾げる。特に誕生日などの行事が控えているわけでもないし、かといってナタリアが近頃バチカルから外出した記憶もない。あえて今プレゼントと言って差し出される意味を搾り出そうとしてようやくまともに小さな手にちょこんと乗っている木細工を眺めてますます訳が分からなくなった。

「……ブウサギ?」

 精巧とはいいがたいつくりで本で見たものよりもだいぶ丸っこかったがそれはほぼ間違いなくブウサギだった。腹部分に細長い穴がぽっかり空いて中から銀の球が覗いている。

「なんで? これはマルクトの土産物だろう」

 卓上旅行を趣味としているらしい年上の大人びた少年に、社会地理について尋ねることがよくあるのだが、いつかのその話の最中に土産物について語っていたのを思い出す。時々本当に陰りを持った表情をする彼もそんな会話だと笑みを見せて、まるで故郷自慢をするように雄弁かつ饒舌に話すのがルークには勉強になることばかりで嬉しかった。唯一マルクトについて聞ける機会であり、少年が楽しそうだったから。少しぐらい負担を減らせるのならそれもいいかなとルークは思っている。

「城の者が休暇中にケセドニアへ旅行にいったのですわ。それでお土産にとくださったの」

 なるほど、物資の溢れる街にならそういうものがあってもおかしくはない。ナタリアはにっこりと微笑んで左手に木細工を移動し右の指で服の取っ掛かりにかけられた今にも落ちそうになっているブウサギをつまむ。「幸運になるんですって」とナタリアは嬉しそうだったがお情け程度にたれている紐が本当かどうかを疑わせるのに拍車をかけていたのでルークは曖昧な表情での対応しか出来なかった。

「ですから一つはルークに差し上げます。二つあってももったいないですし」

 貰うべきか慎んで遠慮するべきかルークは迷ったが結局ナタリアのきらきらした瞳に根負けして「ありがとう」と呟きナタリアの手からブウサギの鈴を受け取った。近くで見ると更に粗が目立ち、それでも一市民は喜ぶのだろうなと思いながら、ちりんと一回鈴の音を響かせた。




 遠い所から鈴の奏でる音が飛び響くのをアッシュは耳にした。久しく聴くことのなかった涼やかな音色はまるで世界の終わりを告げるようなひどく優しい色で、アッシュはそれが何から発せられたのかをすぐには結論を出せなかった。
 これは、あの時の――?
 持ってはいたものの、もうボロボロの音さえまともに鳴り響く機会を失った鈴が今空気を揺らしたのはなぜだろうと、油断して落ちた罠の穴から見える先程歩いていた場の天井を眺める。ずっとそうしていても意味がないことに数分間ぼーと寝そべっていた末に気づき、アッシュは視線を今いる部屋に注いだ。落ちてきた格好そのまま、大の字に体を横たわらせているので眺め回すのは意外に首への負担が大きい。仕方がないので悲鳴を上げる体を勢いづけて起こす。
 遠くまで眼を凝らすと、知らないうちに転がり落ちていた家畜の細工がぽつんと置き去りにされたような孤独感を漂わせながら、存在しているのを見つけた。打ちつけた背中の痛みは思ったよりも軽傷で、大して時間もたたないうちに引いたので、なんとなく鈴に近寄り土産品に手を伸ばすとかたりと傾き穴の開いた腹を見せる。覗く腹内には音源があり、闇の中にも銀に輝く希望があるんだと訴えられている気分が否めない。じゃあその希望を俺にくれるのかと戯言に少し付き合いつつアッシュは細工を拾い上げ、手中で転がしてみる。再度りんとした壮麗な音を鳴らした直後、すでにひび入っていた部分から痛々しい音を立てて真っ二つに割れた。
 アッシュが呆然としている隙を狙ったかのように割れた木部分は床に逃れ、更に崩れていく。それでも唯一つだけ残った以前より古びた感を見せる鈴を呆気にとられつつ見つめ、アッシュは小さく自嘲してころりと落ちていくブウサギの鈴を眺める。なんだかそれが自分のようで、ただただ王家の碧眼で思い出のなれの果てを見送った。





[2012/08/25 - 再録]








「――ああ」

 ただでさえ長々しい貴族社会の挨拶の定型文にプラスされて、国の情勢がどうだとか関心のない人間にとってはただのつまらないだらだらとした言葉の羅列がしばらく続いた後、今その場に連れてきた事を思い出したように不意打ちとも取れる声がナタリアに向けられた。

「さあ、ナタリア」

 頭のてっぺんから落ちてきた短い言葉にナタリアは幸いというかなんと言うか、とにかくすぐに気づいて必要以上に敏感な反応を示す。前に語られていた幼い子どもには理解しがたい話に、ちょっとしたうとうと気分を味わっていたので咎められたのかと一瞬勘違いを起こしたがそうではないらしく、だいぶ首を持ち上げてやっと合わせられる父の顔は穏やかなものだった。それでも相手に対する無礼を働いていたので居心地は決していいものではなく、ナタリアは即座にかけられた声の意味を理解し前に向き直る。

「はじめまして。わたくし、ナタリアともうします」

 幼さを充分に残した拙い口調で挨拶の定型文を述べる。同時にスカートの両端をそっと掴んで腰の辺りまで浮かせお辞儀をした。まだ覚えたてのぎこちない動作の流れだったが年齢を片手で数えられる少女にしてはずいぶんと大人びた動きでもあった。
 それを微笑ましそうに見届けた赤髪の叔父が無言で隣の少年に視線を落とす。何も言わずにじっと少年を見ていただけだったが見られていた少年は分かっていますというように小さく頷き、控えめな笑みを貼り付けてナタリアの前に数歩歩み寄った。




 彼の名は、ルークというらしい。ナタリアよりも一つだけ年下で叔父の息子、つまり従弟にあたる人だといっていた。初めてできた同じくらいの年の友達。父は彼の事を「こんやくしゃ」と言っていたが、ナタリアにはまだ「こんやくしゃ」の意味が分からなかった。その言葉を教えてくれた父は少し悲しそうな、苦しそうな表情をしていたがあまり良い事ではないのだろうか。分からないことだらけであったが当のナタリアには些細なことだったらしくこの上なくご機嫌だった。

「ルーク、ルーク」

 覚えたての名前を不必要に連呼し、豪奢な調度品を加減なく添えた回廊を威厳を持つ赤い髪を波打たせ特に関心を抱かず足早に通り過ぎていく後姿をナタリアは無邪気に呼び止める。その歩く姿さえもどこの貴族よりも優美で見惚れてしまいそうだった。

「なんでしょうか、姫」

 硬直状態を数秒続けてから当たり障りのない薄い笑みを顔に乗せつつ振り向いた少年を見てナタリアは後ろに退いた。なんとなく、少年に拒まれたような気がする。足がすくみまだ暦の上では寒々しい季節のはずなのに、手が、額が汗ばんでいく。

「あ、あの。先ほどの会釈がとても美しくて、その、どうすればあれほど綺麗な動きができるのかと……」

 怖いほど真直ぐな瞳に気圧されて尻すぼみになっていく語尾を気にする余裕もなくどもりつつも言い切りすぐに顔を俯ける。でも本当のことだとナタリアはスカートの裾を握り締めた。本当に、本当に綺麗な柔らかい流れだったと自信を持っていえる。

「姫にもできるようになりますよ」

 礼儀で口にした感が拭えない言葉を少年は抑揚の乏しい声色で発し、これで終わりだといわんばかりに足に意識を戻して踵を返しさっさとこの場を離れようとする。それの動作を感じナタリアは慌てて言葉をつないだ。

「あ、あと。わたくしのことはナタリア、とおよびください」

 少年はまた振り返り、今度は眼を見開いてなにを言っているんだこの姫様はという顔をして体ごと向き直り少し考える仕草をした。それが年相応の子どもの動きには見えないが、背伸びしている感はない。彼の自然な対応なのだろうとナタリアは結論付け何だか嬉しくなった。実際そんなものは味わったことはないが、小さな違和感がなくなってすっきりしたような気分だと思う。最初はただ不思議がったり喜んだりしかしていなかったがよく考えてみれば彼は何だか他人行儀だった。
 にこにことしまりのない笑顔を浮かべていると少年は何かを決めたようで、大きく首を縦に振り棘の抜けた笑みでもう一度会釈した。

「わかりました、ナタリア。改めてこれからよろしくお願いいたします」

 見せてもらうのは二度目になるその一連の動作の中に棘はなかったけれど、鋭い真直ぐな視線も穏やかだったけれど、黒と白のように決定的に違う何かが疼いていたような気がした。抽象的で言い表しがたい何かが。

「それではまた明日逢いましょう」

 そういい残して少年は今度こそ去っていく。ナタリアは呆けた顔でまた明日、とだけ小さくなる背中に声を投げた。




 まだ少しだけ少年との間に狭間ができているような気がしたが、これから埋めていけばいいんじゃないかとナタリアは思ったよりも前向きな考え方ができた。少年は絶対嘘をつかない。真摯な瞳がそう物語っていた。だから明日が来ればまた逢える。きっと明後日も明々後日も。その時々で少しずつ、少しずつ深いのか浅いのか分からない底をどんどん今二人が立っているぐらいの高さに変えていけばいい。時間はまだあるのだとナタリアは意気込んだ。

 夕時を告げる鐘が鳴る。鳥が一斉に飛び立って紅の空に灰の色を付けて行った。





[2012/08/25 - 再録]