世界に嘘はない。常に真実をその身に抱え、強く、そして半永久的に見守り続けるそれこそが本来の姿であると、男は言っていた。では何が嘘をついているのかと、若干吊り上げた眼を向けて問うてみると、その男はおかしそうに笑い叫んだのだ。世界以外の全てだよ、と狂気に似た何かを覗かせながら。




「どうです伯爵様。こんなお話、信じられます?」

 上品なコーヒーカップに注がれた黒の液体に砂糖とミルクをたっぷりいれ、スプーンでかき混ぜながら、そんな話を持ち出した。主にブウサギの世話と仲介役の業務に追われた青年は金髪と翠の瞳を小さく揺らして「誰が言ってたんだ?」と話の続行を促す。

「もう行われていない預言を聴きに来た方ですわ。貴方の思う世界とはなんですかって聞いてみたら、星しかないじゃないかって返されちゃいました」

 液体の付いたスプーンを癖で舐めてから小皿の上に乗せカップを持ち上げる。じんわりと温かさを伝えるそれの香りは若干ミルクに持っていかれながらも充分上等だった。

「病んでしまったんだな、きっと」
「そうなんですよお。結構その手の方の来訪が多くて、神経を宥めるのが大変で」

 もちろん自分のである。つい口より先に出てしまいそうになる困った手を押さえつけながら親身に話を聞き、落ち着いたかなと思ったところでやんわり断るのになんと骨の折れること。

「ちなみに、私はそれが正しいとは思えないんですよねえ。それさえも嘘をつく人間の戯言のようで」
「俺は、世界だって平等に嘘がつけると思うが」
「あら、ちょっと考え方が違いますね」
「ついでにアニスの口調も違うよな」

 甘くしたコーヒーを口に含み、柔らかい上質の味を堪能してからアニスは笑った。リビングの壁に当たるより先にその声は空気の飲み込まれ、控えめに口の端をあげる。

「こんな豪邸に招かれている身ですのに、小汚い言葉でおしゃべりするのは気が引けますわ。そうですね、少なくとも、この家の住人になるまでは」
「よく言うなあ」
「私は結構、本気ですけれど?」
「普通だったらこのタイミングで、そんなこといわないけどなー」

 ぽんぽん飛び出る台詞に、扉の前に控えるメイドが耐え切れずに噴き出すまで、そう時間はかからなかった。





[2012/08/25 - 再録]








 定間隔に配置された石段の上で軽快なステップを踏む。かつん、かつんと、いつもとは一味違う跫音が賑やかに鼓膜を撫でた。

「あまりはしゃぎすぎるとこけるぞー」

 背後からのろのろ近づいてくる影が苦笑気味に茶化すので、思わず少しだけ顔を膨らんだ。

「アニスちゃんはそんなへま、いたしませんー」

 どんなに浮かれてたってそこまで気が逸れるわけがないし、そもそもしばらくは傷一つつけてやるつもりなんてない。はしゃいでいるように見えたって、むしろいつもより慎重である。
 おせっかいですよーとか思いながらも、頬に溜め込んだ空気がゆるゆるとしぼんでいくのに従って、唇が柔らかく緩む。
 横殴りにかかる赤の光が、押し伸ばすように二つの影を前へと追いやる。その度に真新しいブーツが自身の影を踏み、けれどてっぺんにまでは辿り着けなかった。





[2012/08/25 - 再録]








 こつん、こつん。アニスにしては珍しく、ゆっくりとした間隔で軽めに扉を叩いて少し待つ。部屋からの反応は何もなかった。一連の障気中和の件で、あるいは赤毛よりも思い詰めた青年が中へ吸い込まれていったのを角からしっかりと確認していたので、これが全力で居留守なのだということは自ずと分かる。遠慮なんてアニスちゃんらしくないしーと脳内にて無意味な言い訳をしつつ、なるべく音を立てないように開けてみる。隙間から漏れてきたものは暗闇で滓かに顔をしかめた。廊下側の光が部屋に浸透して暗がりを緩和させる。半開きになったところで顔を忍ばせ、視線を彷徨わせてからようやく見つけた。右側の隅で座り込んだまま動かない物体。というか人。

「生きてるー?」

 かびてそう。失礼極まりない感想を飲み込んで出てきた言葉もあまり適切ではないもので、なんだか収集がつかなさそうな勢いになる。そんな思いを孕んだ言葉に青年は今気づいたような反応で少しだけ身じろぎして、けれど顔は俯かせたままだった。

「ああ、生きてるさ。嫌になるくらいに」

 文字通りに投げやりだった。どうにもならない、一緒に何もかも投げ捨ててしまいたくなるくらいには。そんなことが本当にできるほどの勇気と怯えと諦めが規定量溜まっていたなら、とっくの昔にしていたのだが。

「ガイは、友達を選んだんでしょ」

 復讐の矛先じゃなくて、使用人の枠も超えてみちゃったりして、励ましあえる絆作っちゃったりして。
 そろりそろりと近づいて、ある程度の距離を詰めてからしゃがみこむ。手を伸ばしても届かないくらいのところから顔色を伺おうとしても、金髪しか見えなかった。

「なら、最後まで友達として接してあげれば良いと思うよ? そうしないと、あのお子様だって参っちゃうんじゃないかな」
「そうだなあ。そうなんだよなあ」

 頼りなくあげられた顔は今すぐにでも壊れそうだった。なにが壊れるのかは分からない。多分、とても大事なもの。

「いっそ、死ぬほど恨み倒したくなるようなやつだったら良かったのに」
「今の皮肉屋にそれを求めるのは酷だねえ」

 二人して嘘のような笑いで空気を緩く奮わせる。うすっぺらく張り付いた笑みからは、決して抜け出せてはいなかった。





[2012/08/25 - 再録]








 水の都の地に足をつく。砂のこすれるわずかな音と、心にたまる期待と不安と充実と何かがざわりとアニスに入り込む。
 何気なく視界に入る抜けるように抜けた空は当然に蒼く、見上げるアニスをただ見下ろしていた。静かに荘厳に、強くその身を広げつくして大地を包む海と同系色は、羽を伸ばし過ぎて緩やかな薄い色に落ち着いている。それが、全てを見たくて行った欲望なのか、地を守り抜くために甘んじて受け入れた優しさなのか、アニスは分かるはずもなかったが、一時期世界に充満した紫よりはずっといい、と小さく笑った。
 ついでにいい加減その場に立ち尽くすのは邪魔に思えたので、足を運びのろのろ動く人波に乗る。まばらな足音、所々で繰り広げられる言葉の投げあい。勝手に耳に侵入しては気ままに出て行く一連の動作をアニスは特に気にすることなく続けていく。
ダアトでは温暖を通り越して暑い時期であったが、北に位置するマルクトの都は比較的涼やかで、避暑には最適な場所なのだろう。いつにも増して人が溢れているように思える。少ない休みを利用して遊びに来るよう招待された理由を理解し、アニスは息をついた。絶好の餌だ、スリの。
 さんさんと光と熱を降り注ぐ太陽は、前をだらだら歩く男によって見受けられない。別に昼の輝きを拝みたいわけでもないし日陰が出来るからかえって好都合なのだが、なんだか檻に入れられた珍獣のような気分だった。人間で形成された動き回る檻。自由に見えて拘束される貴族の方々はこんな感じなのかしら、と「エンゲーブよりかは涼しいねー」とけっこう当たり前の事をのたまう男の声と同じくらいどうでもいい事を心中で呟く。
 丁度アニスが嘆息し首を折り曲げた時、人波を抜ける分かれ道をコンクリートの色から察した。目的地は高貴な方のお屋敷に指定されていたから、まっすぐの道から派生する、それでも幅ある右の道へ、人を掻き分けてでもそこまで抜ける必要があった。
 体を右に曲げ、少しずつ端へ向かう。人々が浮かべる怪訝な瞳に口先だけの謝罪を適当に投げ、真直ぐに進んでいく波から枝分かれする、少数が曲がる整然とした道に抜けようとする。
 ぱっと視界が人波から開けた空間を捕らえ、最後の「すみません」を述べて抜けようとした瞬間、あろうことか背中に誰かの腕があたり、体勢を正す前に足がもつれた。小さく悲鳴を上げて地面に転げそうになり、数刻後に訪れる衝撃に身をすくめアニスは目を瞑る。閉じた瞳を再び開けたのは、腹部に柔らかく当たる何かに不信感を抱いたときだった。

「大丈夫か」

 手厳しい衝撃の変わりにアニスの頭から落とされた声に眼を瞬き、勢いよく顔をあげた。逆光にあてられ表情は掴みにくかったが、声色からして身を案じている感じのする、金髪の青年。グランコクマに呼び出した張本人であり、半年は会っていないと思われるマルクトの貴族。アニスは門口一番に言おうと思っていた言葉を飲み込み、とりあえずアニスの体重を支えている腕を一瞥してから抱きついた。

「きゃわーん伯爵さま、どうしたんですかあー?」

 声を若干高くしてかわいこぶって聞いてみる。予定では彼の邸宅で落ち合うはずだった気がしたのだが、それは思い違いだったのだろうかと自分の記憶力に疑いをかける。多分そんなことはないと思う。
 間延びした声で何かに気づいたのか、途端に「伯爵様」は小さく身震いしてアニスをゆっくり控えめに離そうとする。がたがた揺れる体の振動が引っ付いたアニスの顔や腕に伝わり、小さく舌打ちした。まだ治っていなかったのか。

「む、迎えに来ただけっ、さ。まあ、結果的にっは、良かったみたいいいだけどなああっ」

 声がぶれて聞き取りにくかった。これでは会話に支障が出ると、アニスはしょうがなく腰に巻きつけた腕を解き、四、五歩分かれ道から距離をとる。

「ん、ありがと。ちょっと助かったかも」

 ほっとしたような残念なような顔で歩み寄ってくる青年に微妙な複雑感を覚えつつも、アニスは最初に言おうと決めていたのにいえなかった文句を口にする。

「ではでは改めて、あけましておめでとー、ガイ?」
「おめでと。もう何ヶ月過ぎてるんだよ」

 もちろん新年の門出を祝ってのくだりを書き記した手紙は送った。だから改めて、っていってるじゃんか!と叫び散らしてすぐに、周囲の視線が向く事を予見して、ほら早く歩けーと軽く足元を蹴る。ガイはよろけることなく苦笑を見せて、アニスの隣を歩き出す。歩調をあわせてくれているので比較的ゆっくり。

「もー遊びに来てくれない方がぜーったい悪い! アニスちゃん浮気しちゃうぞっ」
「それは怖いなー」

 二人して笑い声を響かせながら、でも冗談じゃないかもしれないんだけどなーとアニス自身は多分冗談だと思っているのにそんな事を考えながら、まだ真っ白な邸宅への道をわざとゆっくり歩いていった。





[2012/08/25 - 再録]