ようやく星々の呪縛から解き放たれました。多大な犠牲をこうむってしまいましたけれど。
 階段を駆け下りる。半ば転げ落ちるように、その場から逃げ出すように。男性陣はともかく、女性陣は各々独特の駆け下り方をしていた。特に隣で今にも崩れそうな顔を必死に引き締め無表情を装うティアなんて、滑り落ちている感がどうしても拭えない。そう呑気に思いを馳せるアニスも割とおぼつかない足取りで長く続く段差をひたすら下へと足を運んでいた。

「もう少しだ、気を抜くなよ」

 背後から轟く崩壊音に急かされつつ、肩に乗せた人形を左手で押さえながら、近づいてきた天井のない世界へ向かう。あと20メートル、10メートル、7歩、3歩、伸ばした右手が澄んだ空気に触れて体が昼の光を浴びて、それで。

「ああ――」

 いち早く振り向いたティアの吐息とも取れる声にアニスは駆け過ぎた白の故郷に視線を投げる。屋上から天へと伸びる一筋の光とぱらぱら落ちていく岩石が舞う。

「ひにく」

 なんて皮肉な尊い青の色。心の透き通った時に行き着く色のような限りなく白に近いそれに手を伸ばすのは、夕日色の。
 ティアが唇をかみ締めている姿を横目に、隣でじっと親友の姿を探ろうとしている優しい青年は、顔色を変えなかった。変えなかったわけではなく、あるいは押し殺しているかのように、じっと。
 誰も誰かを励ますことが出来なかった。励ます余裕もないし言葉もない。言葉を使わず笑顔で元気を出させる光は、今まさに世界に融けていく最中なのだろう。誰かが口にしなくても分かる。時折手が透けていたのを、耐えるように顔をゆがませていたことを、皆知っている。

「、いきましょう」

 何人かの声が重なった。それが誰の声でどんな思いで呟いたのかも瞬時に理解できている。仲間の故郷を再度見やって、アニスはそれ以降振り返らずにアルビオールへ足を運んだ。重い足音が幾重にも膨れ上がる。
 誰も自分以外を励ますことなど誰も出来やしない。これはどれだけ自分たちを信じられるか、長い長い死闘だった。人に向けた言葉であっても、結局は自分に言い聞かせるためのものでしかない。だからアニスはしばらく励ましの言葉から離れて、教会のために力を注ぐ。自分を保つためなら、そのくらいはやってみせる。
 犠牲と報酬、吊り合う事がこの世にない真実を、忘れないようになさい。
 いつかどこかで聞いたのかもしれない誰かの言葉が脳内で反芻しながら消えていくのを、アニスは大地の一部を踏み倒しながら心待ちにした。




 強がることになれた彼女と、息をするように隠し事をする彼ら。





[2012/08/25 - 再録]








「お前なら、抱きしめてあげられるだろ」

 呟かれた言葉がどちらに向けられたのかは青年には区別がつかなかった。それは大きな意味でどちらにも出来ないことで、もしかしたらいつかどちらも出来るはずのことであったから。青年にも彼にも大切な人がいる。けれども様々な理由が重なりあって触れる事を拒んでいるのが現実で、なぜかそれを二人して正当化している。言い訳の矛先は違うものの結果は同じで、だからこそ苦しみを理解できた。したくもなかったはずだがこれは性分なのか、それとも。

「まだこの世界で生きていけるのだから」

 逃げるように空気へ溶け込んで言った言葉が、もはやどちらから発せられたのか区別がつかない。つける気もないし、むしろ早く消えてしまえばいいと思っていたほどだった。
 大丈夫、こんな言い訳はもう使わない使わせない。弱い自分がそれで消え去るわけではないけれども、一つめちゃくちゃな決別はついた。だからそうだ、お前ももうこんな逃げ道は使うな。

「いくぞ」
「おう」

 短く告げられた言葉にすぐさま返答。先へ先へと歩む足取りに合わせ、青年も小走り気味に足を運び、同類の背中を叩く。ばあんと手に届く振動でやりすぎたかなとほんの少し苦笑して、ぐだぐだ文句を吐かれる前に「おいてくぞー」と声を飛ばして走って逃げた。





[2012/08/25 - 再録]








 両手についた血は紅かった。今まで見てきたどんな赤よりも赤らしく、今まで視界に入ってきた血よりも深い深い紅。もっとどす黒いものかと思っていたそれは恐ろしいくらい真っ赤で、初めて本当の色を知った気がした。




「なにしてんの。血なんて見慣れてるでしょ」

 ぬっとりした紅い液体に恐ろしさを感じてしばらく固まっていると、先程までは誰もいなかったはずの背後から、比較的高いボーイソプラノの声が鼓膜を振動させた。油断していたといえばそれは確かで、それでも「友達」の獣が雄叫びをあげなかった事を配慮すれば、仲間に値する人物らしい事実に行き当たる。その耳に届いた声で判断できなかったのがアリエッタ自身でも不思議だったが、それを気にしている余裕も気力も判断力もなく廻らない頭で反論に及ぶ。

「てについたの、はじめてだったんだもん。アリエッタはただ見てただけだったからっ」

 こんなに不快なものだとは知らなかった。いつも飛び散るその色を無表情を装って眺めていただけで、友達が適当になめているのを美味しいものなのかなと疑問に思っていただけで。

「言い訳。そんなの通用しない」

 混乱と何か不可解なものが重なり、アリエッタは思いのほか睨みをきかせた瞳で少年を仰いだ。座りこんでいるという理由もあるが、アリエッタは同じ年代のこと比べても背が低いため、きっと立っていたって同じような目のやり方になっていただろう。

「どうして、おしえてくれなかったの」
「どうして教えなきゃいけないの」

 呆れ声で返ってきた答えは問いに問いを重ね、本来疑問を投げかけて解消して欲しいと願う者の動きを封じるもので、アリエッタはそれに覆い被せる言葉を知らず歯を食いしばり俯いた。
 仮面によって少年の表情がどのように心を映しているのかは分からなかったが、きっと意地悪に顔をゆがめて手を染める紅に涙を溜め始めている自分を見下しているのだとアリエッタは決め付ける。いつだってそうだ。出会ったときからいつも目下のガキみたいな口調でアリエッタをからかったり馬鹿にしたり。
 こんな時、なんでイオン様は助けてくれないのだろうとアリエッタから彼を引き離した人形使いの少女を恨んだりしていると、なぜか少年は決まって不愉快そうな声でとどめの言葉を飛ばすのだ。

「怖いの?」

 意外そうなどうでもよさそうな短い単語に肯定の旨を伝えるための声も、ついに喉から押し迫ってくる何かに阻まれアリエッタは頷くことしか出来なかった。ぬっとりとした血はどんどん固まってどす黒く変色し、最初に見た花のように赤い色は、遠巻きに瞳へと焼きついた恐怖を伴うものしか残ってない。血で塗り固められた手をぎこちなく動かすと、ぽろぽろとアリエッタが流せなかった涙の分のように小さな塊となって周りと一緒くたに落ちていく。中途半端に固まっていたらしく、一部はまだ粘りを帯びてアリエッタの手に吸収されたがっているみたいだった。

「そう」

 尋ねた割にはそっけない返答しかよこさず、けれどそれに反応を返すほどの元気も律儀さも今のアリエッタには存在すら見つけられなかった。なら聞かなければいいのにと声を返す気力ももちろんあるわけがなく、ぽろぽろ落ちる紅い涙に眼を向け続けた。

「なら、洗ってしまえばいい」

 その言葉が耳に届き意味を理解するよりも早く、多くの血で汚れたアリエッタの手がつかまれ、仮面の下の口から這い出した舌が血の塊の落ちたひび割れをなぞる。それはひどくゆっくりでアリエッタは一段と長い時間だと錯覚した。

「……まずい」

 少年なら最初から知っていただろう事なのだから舐めなければよかったのにとか掃ってくれるだけ、でもいいのではないかとか反論する題材はあっても、上手く伝えられるほど言葉数が多いわけではないアリエッタは固まったまま少年の仮面を凝視する。

「運が悪かっただけだよ。本当はこんなにべとべとじゃない、むしろさらさら」

 フォローなのかよく分からない事をはき捨て、少年は「仕事。そろそろ出陣らしいよ」とそもそも連絡を回しに来たらしい事を暗に示して、アリエッタを置いて去っていってしまった。ぽつんと残されたアリエッタは小さく鳴いた友達に気を遣うことが欠落していて、ただぼーとこの手はカチカチに固まって自分を縛ることはないと止まった思考の中で、なんとなくそう考えた。





[2012/08/25 - 再録]








「シンクは嘘をつき過ぎてしまったです」
「……人のこといえるの?」

 少し眼を見開いて少女を凝視する。鎌をかけられたのかもしれない。
 そもそもいつものシンクなら表情変えずに皮肉な言葉を二言三言添えて終わるはずの内容だった。そう、いつも自分がしてきたように、人を見下した嘲りで少女自身を通り越した少し先を見据えて。

「分からないとでも思っていたですか。シンクがいわないこと、アリエッタが黙っていること、全部全部」

 いつもの少しだけ何かに怯えた声色は消えうせ、淡々と呟く少女はシンクの仮面をじっとりと見る。なぜだか少女に仮面を通り越して自身の顔を見つめられている感覚が抜けなくて、顔を逸らすと少女は「やっぱり」と若干の落胆を含んだ息をつく。

「これでも年上です。何倍もこの世界で生きてます」
「二歳しか違わないくせに」
「嘘」

 びくりと肩を震わせる。言い繕う言葉が出てこない、背けた顔の側面に浴びる視線に逆らえない。

「気づかないと思ってたですか。アリエッタ、ずっと見ていた、です」




(その真直ぐな眼差しに、これ以上の嘘がつけるのか)





[2012/08/25 - 再録]