世界に夢など誰も与えてはくれなかった。世界は私たちには、夢を与えてくれたのに。




 空は泣いていた。どうしようもない絶望や何にも勝らない幸福を誰よりも敏感に感じ取り、いつも顔を曇らせて涙に濡れている。連鎖反応で起こる雨粒で、一時の悲哀を流してあげるように、優しく、優しく。その優しさが憎しみに変わるまで、あと何秒くらいだろうとアニスはぼんやりと冷えた頭で考えつつ片手をそっと前に出し、堕ちる雨を受け止めた。

「夢がないの、可哀相に」

 天を仰ぎ、落ちる雫に視線を定着させながら、アニスは雫の奏でる曲とちゃぷりちゃぷりと不規則に水溜りを蹴る靴音に合わせて言葉全体を覆い隠すように呟いた。頬を伝う軌跡は雨の仕業で瞳からは何も溢れてこない。それとも自分の心の叫びをも、世界はなんとなく気づいていると暗示しているのだろうか。それなら世界に教えてあげなくては。それは余計なおせっかいだよ、と。

「全部私たちに分けてくれたから。この子は、世界は優しすぎたんだよ」

 両手を器上の形にして、彼らの恩恵が溜まるのを見届けず、ただただ空へ瞳を向け続けた。時折瞳に入り込む彼らがアニスに溶け込めることはなくそのまま涙を見立てて流れていく。そんなに私が泣く事を望んでいるのかと首を傾げた。本当に泣きたいのは、あなたたちでしょう。愚かにも幻想にうつつを抜かす、抜け殻たちを見かねて。

「返せないの。人はやっぱり貪欲であるよう作られているから。それがヒトとして生きる最大の武器であり、自虐であるから」

 アニスは人の代わりに泣くことはできなかった。どんなに望んだって、乾いた瞳に潤いは芽生えず、からからの砂漠のような心でその場に佇むことしか。そんな器用なことがなぜできるのかと問いただしたくなる位、理解の範疇を超えている行為だった。
 手から伝わる温度は冷たくて、ぽたりぽたりと自然に落ちていく雫とは異なる音階を奏で零れていく。必死に間を塞ごうとしたって出来るわけがないと苦笑しながら、優しく漏れていく雨は大地を包み込むためにすでに落ちていた同志と戯れ始めた。

「だからって」

 言葉を一区切りして、ばっと両手を天に振り上げた。勢いと共に溜まった水はアニスの頭上に舞ったかと思えば重力に従い大地に吸い込まれようとするが、投げ飛ばした当人が邪魔をした。頬に軌跡を描く水滴は首筋を通り服に吸い込まれ、また一段とアニスに重石をつくる。
 ずっと外で雨を見ていたせいか、アニスはびしょ濡れだった。髪は水の重さを支えきれずにだらりと垂れて、アニス自身が世界の思いを受け止めようともがいているように、彼には見えるかもしれない。アニスにはそんな気など微塵もないのだが。そこまで自惚れていない。世界を一人で救えるはずないくらい、分かっている。

「誰かの夢を奪って自分の夢を作るのってただの横暴じゃないの。ねえ、ガイ」

 雨水に歪まされた視界を金色の覗く方へと捻じ曲げる。広げられた傘みたいなものが怠慢に義務を果たしている下の、困惑顔をしていそうな空気を醸した金色。優しくて強くてそれでも自身を上手くすくえないきんいろ。なんてすてきでざんこくな。

「わからないの、誰も教えてくれないし、誰も知らないからだと思うのだけれど」

 空気を斜めに薙ぎながらくるりと片足を軸にして回るアニスの声色は、いつものふざけた口ぶりとはどこか違った。大人ぶっているわけではなく、ただ無邪気を取り払った子どものように、不思議な事を素直に呟いているだけ。それだけなのに、こんなにも感情の抜け落ちた人形のような声が出る。  くるくるステップを踏んで水溜りに波紋と飛沫を残す。傘を打つ水音と再び宙に振り上げられた雨水と今落ちてきた雨粒の霊送曲がアンバランスに世界を揺らした。

「そうするように世界は仕組んでいて、それが世界の願った夢なんだろ」

 ゆらりと金色が揺れた。傘が少し離れたアニスの頭上へ被さる。
 雨の日はいつもより女性に近づけるなんて面白い特性など用意されていない彼は、もちろん体が震えない限界までしか近づず、結果自分が傘からあぶれ、今までアニスが受けていた洗礼を甘んじて浴びることとなった。

「ガイ、濡れちゃう」

 アニスは眉を顰め、傘を押し返そうとガイの手に触れようとしたが思いとどまり、結局傘の柄ではなく金属の棒部分を掴み押し返すとする。けれど当たり前のように力はガイの方が数倍強い。傘は微動だにせず、やっぱり面倒くさそうに雨粒との合唱を継続するだけだった。

「アニスだって」
「もう変わんないよ」
「風邪引く」
「私は大丈夫」

 声を紡いでいる間にもガイは雨に打たれ続けている。責め立てるような調子で打つ雨はそれでも大地に生きる人にとっては恩恵に違いなく、けれども洗礼を受けることを避けるため、全ての世界の涙が止んでから恩恵を頂戴する。なんてずるい。今目の前にいる彼は悲しみの心を受け止めているというのに。それと同時に洗礼を防げない自分にも腹が立つ。護られている、女性に触れなれなくとも女性を護れるこの人に。

「……星に運命を取られているのに、世界はそれでも私たちに夢をくれるの。拷問みたい」

 傘の押し合いに根負けしたアニスはぽつぽつと呟きだす。どうせ譲らない青年に張り合う特殊な力をアニスは持っていなかった。それなら話を続けて、何かで気を紛らわしていた方がいい。口をついて出たのは、世界を敬いたいのか貶したいのか自分でも分からない文句だったけれども。

「星も世界の一部で、世界が人に少しだけ抗う力をつけて欲しいと思ったから、運命を星に預けたのかもしれないぞ」
「他人任せ」
「そうかもな」

 ざあざあととめどなく泣き続ける世界の一部で、ある種の嗚咽に耳を傾ける。その場から離れることもなくただ佇んで、アニスはひそかに、世界の夢がいつかまた再生されるのかなと思案した。








[2012/08/25 - 再録]