じりりりり、じりりりり。
 機械的な音が一定の間隔で鳴り響く。お世辞にも耳に心地よいとは言えるものではなく、むしろ喧嘩売ってんのか壁に向かって投げて壊してやるぞこらーとか道具相手に文句を言いたくなるくらいだった。上質な素材で出来た毛布に潜るも耳障りな音は無遠慮に浸透、若干音量が下がったくらいで急かしは止まらない。ついでに音機関が小刻みに震える所為で木製の棚を叩く音が加わって、さらにうるさい。
 しばらくの格闘の末、耐えかねたルークは再度短く切りそろえた赤毛の髪をあちらこちらに飛び跳ねさせたまま、音機関についているボタンを乱暴に叩く。途端に大人しくなったそれを見てルークは嘆息し、眠りなおそうとするも窓から射す光と簡易な音機関が刻む時間に、重たい瞼を無理やり押し上げるはめになった。

「っそだろー?」

 机上で今月の予定表のページを開いたままの手帳に眼を向ける。乱雑に書かれているが歓喜に満ち溢れた花丸と、貴族社会とやらに馴染めるよう、まずは礼儀作法および常識からともう一人の赤毛とキムラスカ王国の姫が主催する勉強会の意が本日の欄に書かれていた。しかもご丁寧に厳守とまで書かれている開始時間は、十分後。

「うわわわアッシュに怒られるどやされる!」

 ひくつく頬を軽く叩いてやるのも忘れ、ルークは「兄弟」の怒り顔に追いかけられるような感覚に捕らわれながら、全力で普段着に着替え始めた。




「遅い。ついでに身だしなみもアウトだ」

 扉を半ば蹴り倒す勢いで押し開けた途端、部屋の中心でナタリアとテーブルを囲んで座っていたアッシュに駄目出しを食らわされるも、ルークは反論より先に壁に立てかけてある音機関の一種である時計に眼を向ける。時計の針は約束の時間より少しだけ進んでいて、けれど本当に二、三分の遅れだけだった。

「ぎりぎりセーフ。遅れたって言うのは五分以上過ぎたらだろ」
「アホか。遅れたら相手に失礼だろ。軽く今日の勉強の意味分かってないんじゃないのかお前」
「細かいぞお前。カルシウム足りないんじゃないかー?」
「そういうお前もずいぶん足りないだろうな?」

 嫌味に皮肉が飛び交う掛け合いはもはや戯れだった。お互いがお互いを認め合おうとしなかったときには選び抜いた辛辣な言葉を叩きつけるイメージが異様に強く、それに比べればだいぶ緩くなっている。

「二人とも、いい加減におやめなさいな。いつまでたっても進みませんわ」
「そーだそーだ! 今日はティアが来るんだ! ちゃっちゃと終わらせようぜ!」

 呆れを通り越して噴き出してしまったらしいナタリアの声に、頭の熱が少しだけ取り払われたついでに手帳の花丸印を思い出して、ルークは自分のせいでもある事を自覚しつつも、ナタリアの言に言葉を重ねた。明らかにアッシュが睨みつけてきたが見ていなかったことにする。

「まあ、ティアが来ますの? 言ってくだされば、今日、勉強会は開きませんでしたのに」
「スケジュール管理のできてない証拠だ」

 気遣いをみせる姫と、ここぞとばかりに皮肉を飛ばす赤毛と、どちらに優先的な反応を示せばいいのかわからず、嬉しいやら怒りたいやらで結局した動作といえば「頭を掻く」。飛び跳ねた髪が手に刺さるのに気づいて、これも身だしなみの駄目出しにカウントされていた事を今更ながらに思い知る。

「…始めるか」
「…そうだな」

 尻切れとんぼに終わった会話に妙な引っ掛かりを感じつつも、ルークは部屋の端に置かれた椅子を勝手に移動して腰を降ろし、「よろしくお願いします」と恒例の挨拶をした。




 慣れた道ながら上層部の登るにつれて痛さの増す兵士達の視線を潜り抜けて、ようやくファブレ邸に辿り着くと、門前で兵士と混ざって佇む女性にティアは眼を見開いた。王族の血を引いた者にのみ持つことの許される紅い髪が風に揺らされ宙を舞い、顔に張り付いたそれを払う女性とは何回も会話を楽しんだこともある。驚いて立ちすくんでいると女性と眼が合い、ティアは我に帰ってその場でお辞儀した。

「いらっしゃい、ティアさん」
「ご無沙汰しています、奥様。あの、どうして外に?」

 病弱であまり体を動かしてはいけない彼女が外にいることに、何か緊急のことでもあるのかとティアは思った。けれども穏やかに笑みを浮かべて呑気に挨拶をするところを見ると、そうでもないらしい。では一体何があったのだろうかと思うのは当然のことだった。

「ええ、ルークからの伝言があって。後もう少しだけ待っててくれ、すぐに逃げるから、ということです」
「ルーク、何かしでかしたんですか?」
「ええ、ちょっと―」
「ティアもう来たか!?」

 どたばた派手な音を立てながら邸宅の扉を開け放った赤毛の青年に、病弱な奥様になに言付頼んでるのとかそんなに慌てなくていいのにとか思う前に、ティアは真っ先に肩を落とした。どうか彼の後ろから迫り来る真紅の髪を乱雑に揺らす鬼に首根っこを捕まれる前に、その存在を察してください。




 結局首根っこを捕まれたばかりかコンクリートに叩きつけられたルークは上手く受身を取り、僅かなかすり傷をこしらっただけで事は済んだ。途中で勝手に切り上げて逃げ出したことは確かに悪いとは思うが、せっかくティアと町へ繰り出すのだから、少しは見逃してくれてもいいのではないか。

「ごめんな、ティア。少し遅れちまった」
「いいのよ、あのくらいなら気にならないわ」
「サンキュ。ついでに後ろから尾行まがいをしてくる二人組も気にしないでくれな」

 苦笑交じりに後ろに親指を立てて示してみる。時折人波から垣間見える赤い髪と金髪の組み合わせに、それが誰かを間違えるはずもない。

「大丈夫。あの二人も本当は出かけたかったんでしょう」

 円を描くように並び立てる店のぬいぐるみなどに眼を奪われながらティアはそう口にした。歩くたびに揺れ動く長い髪が彼女の喜びを逐一教えてくれているのなら、きっとそれさえも楽しいことと捕らえているのだろう。
 ルークは再度感謝の意を述べせっかくだからとティアの手を取り、狼狽を見せたティアに構わずにこやかな笑みを浮かべながらスキップした。