這うような熱気が充満する部屋に、涼やかな風が流れてきた。ページが少しだけ浮き上がるもすぐ定位置に腰を降ろす。
 字の羅列を追い求める視線が、自然と心当たりへ移る。かち合った四つの瞳がにわかに笑みを覗かせたので、溜め込んだ息の一部が抑えきれずに重く零れて解けていった。

「外、良い天気だろ?」
「明日、雨が降るかもしれないよね」
「勉強なんていつでもできるし」

 切り取られたみたいにこっそりと覗く外の世界を指差しながら、快活な声をあげる少年は、間違いなく墓穴を掘った。そういっていつも寝てるのはどこの誰だ、それ以前に誰のために設けた集まりだ。
 突っ込める点があり過ぎて、結局なにも言わずに両手に乗った本の表紙を軽く撫でる。ざらついた感触が掌に伝わり、どうしてか一度だけ心臓が跳ねた。

「でも、いつでも遊べるわけじゃないよね」
「そうそう、せっかく三人でいるんだし、な!」

 彼らが自分に望んでいることは分かりきっている。
 喉に詰まった抵抗の言葉が所在投げにそれでも腹の底へと戻っていくのを見届けて、ジーニアスは机に転がった宿題を一瞥してから、二人の友人に視線を戻した。

「なにするか、考えてるの?」

 表紙と裏表紙に添えた手を引き合わせながら吐き出した声は、わりと諦めみたいな風情を含んでいて内心苦笑する。
 後を追う様に鳴った本の閉じる音は「決めてない!」という少年の潔い宣言の元には、あまりにも小さかった。





[2012/08/25 - 再録]








 誰かによるドアをノックする音(誰か、なんて言い方は卑怯だ。控え目に淡く響くその音を奏でるひとを、間違いなく知っている)が部屋を満たし、怠惰に流した時間の終わりをそこはかとなく知らせる。
 たぶんそのひとは、戸を叩いた事を証明してくれる手に伝わる震動とか分からなくて、今まで大事に温めていた感覚を頼りにした行為なのだと思うと、胸のどこかがざわめいた。
 寝返りを打つと、適度な距離を置いた先のベッドに埋もれるジーニアスと眼が合った。ロイドが出なきゃいけないんじゃないの、と言いたそうな拗ねた視線が、扉の方を示してくる。そんなこと言われなくったって分かってるってのに。
 勢いをつけて起き上がって、簡単に髪の乱れを手櫛で直しながらドアを引く。切り取られた四角から覗く金髪は、間違いなく世界でただひとりの神子で幼馴染で大切な友人。

「いま、だいじょぶ?」

 だめなわけがない、を「ああ」と短い言葉に置き換えて笑いかける。コレットはほうと息をついてから、いつもと変わらないふわりとした微笑みが浮かべた。コレットの笑顔を見ると、綺麗に笑うなあといつも思う。いつまでもこんな風に優しい笑顔でいてくれればいいな、と心の底から願った。





[2012/08/25 - 再録]








「ロイド、鼓動が聞こえるよ」

 幹に耳を押し当てしばらくしてから、コレットは嬉しそうに手招きした。その間にも根から水を吸い込む穏やかな命の音が、人よりずっと聴覚の良いコレットの耳に、確かに聞こえる。

「どれどれ…おっ、聞こえた聞こえた」

 向かい合わせの形で樹に身を寄せ合う二人は小さく笑った。
 こんなにも優しく強く、長い歳月を生きる樹は差別を知らない。いつも見守り寄りかかるヒトを受け止め、突然振り出した雨をしのぐ場所となる。首を上げてみれば沢山の葉と枝と木漏れ日が高い位置で聳えていて、手を伸ばしても届かないくらいに高い。

「ユグドラシルも、このくらい大きくなるかなあ」

 今はまだ小さな命の樹の芽を二人は知っていた。これからの世界を支える、マナを産む優しい樹。

「俺たちが育てるんだ! すぐにこの樹よりかも、ずっとおっきくなるさ!」

 見てろよ、と多分遠くにいる父と近くにいる母に言ったのだろう言葉に、コレットは微笑んだ。ロイドの母に会ったことはないけれど、父には何度も御世話になった。とても優しくて厳しくて、さりげない気遣いを忘れない、最後まで責任を重んじる人。出来ることならもう少しだけ、ここにいて欲しかったと願うのは傲慢だろうか。

「ロイド」
「んー?」
「ユグドラシルに、会いに行こっか」

 はにかむコレットにロイドは二、三回目を瞬かせて、コレットの大好きな笑顔を浮かべて頷いた。




(神子様もお父さんが大好き)





[2012/08/25 - 再録]








 村の子ども達が固まって遊ぶ時に中心となる人は、大抵決まっている。
 今日も今日とて例に漏れず、ひなたぼっこだ、と突然言い出したのは、活発でかけがえのない友人だった。
 えー鬼ごっこは縄跳びがいい影踏みじゃダメなのと不満の声が多数あがるも、少年は全く動じず、「いい天気だし風も気持ちいいし、何より俺は眠い!」と威張って体をのけぞらせた。その所作に子ども達は一拍置いた後どっと笑い出す。
 笑われた少年は大して気にも留めず、さっさと先陣切って近くの比較的安全な草原へと走り出した。続いてわいわい賑やかに追いかけていく一行を見つめて、コレットは小さく息を吐く。
 途端にしんと静まり返ったここに佇んでいることさえ寂しくて悲しくて、やっぱり独りでイセリアの籠に閉じ込められているんだなあと実感する。その上タイムリミットが訪れたら強制的に外へ押し出されるのが悪意でもなく嫌悪でもなく、ただただ救いを求めての一心であることが余計に辛いということを、誰も分かってはくれやしない。

「――コレット?」

 しゃがみそうになる足を奮い立たせて、とりあえず家に帰ろうと踵を返しかけたとき、高いボーイソプラノの声とともに駆け戻ってくる少年の姿が眼に映った。サイドの長い銀髪が少年に合わせて上下に揺れている。

「はやくしないと、ロイドたちを見失っちゃうよ」
「でも、わたし、神子だから」

 自身の言葉にコレットの心が縮こまった。掌に掴んだスカートに皺が寄る。
 合わせたままの目線の先では、少年は眼を見開き、でも、と至極当然のように話し出した。

「ロイドは、コレットは絶対についてきてると思ってるよ。あっちに着いてコレットがいなかったら、慌てて探し出すんじゃないかな?」
「、そうかな」
「そうだよ。それなら最初から近くにいてあげた方がいいし、コレットも来たいんじゃないの?」

 間髪いれずに肯定する少年の眼に迷いなんてものはなかった。思わず首を振ってしまう。もちろん縦に。

「なら、行こう?」

 言いつつ少年は手招きしながら緩やかに後ろ歩きを始める。誰かに似た暖かさを確かに感じたコレットは、返事の代わりにふわりと微笑んだ。





[2012/08/25 - 再録]








 敢えてなにもいわないようにしているのか、それとも的確に感情を表す言葉が思いつかないのか、単純にたくさんの思いを抱えすぎて声を出す事を憚っているのかは分からない。
 だからこそジーニアスも喉から言葉を通すことはなかった。ただ単に零れそうになる嗚咽を堪えるためにしゃべっていないといった方が正確だろうか。
 魔物が飛び出てきても、ジーニアスが詠唱を始める前にロイドが遠慮なく切り倒すので、本当に声という声を発する機会は皆無。刃が体を斬る切断音と断末魔と二人分の靴が床を叩く音と、ジーニアスの荒くなった呼吸が妙に耳にこびり付く。

「ジーニアス」

 ふと緩められた駆け足とともに少しだけ先行していたロイドが振り返った。顔はこちらを向いていても、視線はジーニアスから若干ずれている。

「最後まで、一緒に行って。コレットを助け出そうな」

 一瞬頭が真っ白になった。もしかしたら色々なものが一気に脳内を巡りだして暴走したのかもしれない。つい止めてしまった足が震えそうになったけれども、歯を食いしばって耐えた。

「あったりまえ、じゃんっ。ロイド一人じゃ、心配だもん、ねー」

 ごめんロイド。なにかあったら、僕はきっと。
 迂闊にも聞いてしまった、姉と最初に足止めしてくれた会長の会話を思い出して、唾と一緒に本音を飲み込む。代わりに吐き出した嘘まみれの憎まれ口だって、泣きそうになるのを必死に堪えてだから、詰まりながらになって大して効果がない。
 ようやくジーニアスと視線のあったロイドは顔を歪ませて、それでも「そうだな」と不器用に笑ってみせて、また二人して走り出した。
 さっきまでどうしようもなく弾んでいた息は、もう潜められていた。





[2012/08/25 - 再録]








 世界が再生されたら。
 その話題を彼女と共有することがどんなに重いことなのかを、今更ながらに理解した。理解したところでもう遅かった。本当に間に合うことじゃなかった。知らなかったで済ませられることとは思えないし思いたくもない。
 どうしようもなく自身に対する苛立ちが募る。融けることなく振り続ける後悔は、いつ止むのだろうか。
(分別なんかつくわけがない。それでも前に進もうと思えたのは、その先にあの笑顔が待っているかもしれない、という期待ゆえ)
(それともこれは一種の懺悔と同義のものなのだろうか。そんなの彼女は望まないという事を誰よりも知っているというのに?)




「コレット、転ばないように気をつけろよ」

 何を言っても無駄だという事実から眼を逸らすように、ぎこちなく笑いながら振り向きざまに声を投げてみる。いつもならきちんとキャッチして言葉を返してくれるコレットは、何一つ反応を返さず目線も合わせず、ただ広げたままの無機質な羽をゆらゆらはためかせながらロイドを通り越して降りていった。
 心のどこかに浅い傷がまたひとつ付けられる。けれどどう考えたって彼女が負い続けた傷の方が多く深い。数瞬光を遮り歯を食いしばってからもう一度、少し強めに声をかけた。

「待ってくれ、コレット」

 今度は振り返ってくれたが、いつもの柔らかい笑顔はそこにはなかった。自分が思っていた以上の衝撃が横殴りに襲い掛かる。すごく悲しかった。傍にあの笑顔がないと、不安が後から後から溢れ出てくる。
 それよりもなによりも辛いのは、いつもなら、いつもなら、と比較してしまう自分がいたことだった。コレットがいけないわけじゃないのに、まるで違う何かを扱っているような態度が自分で気持ち悪かった。コレットはどんなことがあってもコレットなのに。そう言ったのは誰でもない自分であるのに。

「大丈夫だからな、絶対に元に戻してやるからな」

 正面から眼を合わせて、決意を胸に宣言する。下から見上げられた生気のない人形みたいな瞳が、少しだけ揺れたような気がした。





[2012/08/25 - 再録]








 コレット、今まで隠しててごめん。僕はハーフエルフなんだ。
 自我を取り戻した友人に意を決してそう告げると、コレットは何の迷いもなくふわりと微笑んだ。

「そっかあ。ジーニアスはハーフエルフだったんだよね」

 とてつもなく伸びやかな声であっけらかんと認められ、肩透かしを食らった気分になった。罵られたり急に態度が変わったりが定石だった所為か、逆にどうしたら分からないというか、なんというか。
 先程の緊張が一気に脱力に変わっていくのが手に取るように分かった。

「も、もう少し違った感想とかないの?」
「うーん、嘘はいけないんだよ?」

 口元に手をあてて疑問系で呟かれても、全くもって咎められた感じがしないし、そもそも根本的なところがずれている気がしてならなかったが(コレットだからこそ、と言ってしまえばそれまでなんだけれど!)敢えてそれを指摘するのは憚られた。無理に言葉を付け加えてもらったのは自分である。

「私ね、ちゃんとあの時も聞いてたけど、今ちゃんとジーニアスから言ってくれたこと、結構嬉しいんだよ」

 だからね、いいの。ジーニアスは私とロイドの親友で、仲間なんだもの。それ以外に、何か必要なのかなあ?
 困ったように、それでもほわほわと穏やかな表情を浮かべる少女は本当の意味で救いの神子なんだ。きっとたくさんの人が、この人の優しさに包まれて笑顔でいるのだと思った。
 一度俯いてから、ジーニアスは吹っ切れたように顔をあげる。僅かに滲む視界が、それでも明確に空の色を映し出していた。





[2012/08/25 - 再録]








「ほら、行くぞー!」

 そう声を張り上げつつもすでに走り出した少年に、慌てて少女も後を追う。金色の長い髪がふわふわ弧を描いて揺れるさまを視界に入れながら、大部分を占める蒼穹に絶対的な安堵を思う。
 常より一際輝いているように感じる昼の象徴。永遠にたゆたう蒼。その盤を穏やかに過ぎ去る、ぱらぱらと散りばめられた細切れの雲。
 暖かくてくすぐったくて優しくて尊い。その事を知ったのはいつのことだっただろうか。
 胸いっぱいに空気を吸い込む。自然に広げていた両手分、大地を駆け巡る流れから受ける力が増えたけれど、攫われる髪が心地よくはためいて涼しい。助走さえつければ、そのまま飛んでいけそうな気がした。





[2012/08/25 - 再録]








 結局、姉が耐えかねたように無理やりベットから立たせる強行に入るまで、ジーニアスは枕にうずめた顔を自分からあげることはなかった。
 もう朝食は姉が起きる前に自分で作って(もちろん、彼女の分も)食べたし、歯も磨いてあるのだから、もう少し抵抗させてくれてもいいのに、と思ったが、なまじ姉の方が様々な面において面倒をかけている事を分かっているため、それを口に出すのは憚られた。
 だからといって起こされたら起こされたで着替える気にはなれるはずもない。俯きがちに佇むばかりのジーニアスを横目に、姉は上着を羽織りながら嘆息した。

「ジーニアス、早くしないと置いていくわよ」

 そうしてくれた方があるいは楽かもしれない。けれどもジーニアスは充分に姉の性格を知っていたので、絶対に自分を置いて行かないことがよく分かっていた。そして仕事に遅れ誰かに小言をぶつけられたとしても、決してジーニアスを責めないという事も。
 最初から選択肢なんて一つしかなかった。どうせ行かなきゃならないんだ、と半ば自棄になりつつ、ジーニアスはなげやりに着替えを始めたのだった。




 姉が扉を開けると、ひやりとした外の空気が入り込んできた。

「行くわよ、ジーニアス」

 腹をくくりなさい、と暗に示されているだろう言葉に頷きだけを返して、歩き出した姉の隣に並ぶ。ちょうどその時涼やかな風がジーニアスの横の髪を攫っていき、反射的に抑えようとしたら、姉に「そんなことはしなくていいの」と苦笑交じりに上げかけた手を下ろされた。

「ほら、前をむいて歩きなさい。怪しまれてよ?」

 そうはいっても村人たちの、よそ者への、そして「エルフ」という稀有な種族への様々なものが混ざり合った感情を垣間見せる視線が怖くて、前を向きづらい。
 ぽんと軽くジーニアスの背中を叩き、再び歩を進め始めた姉に遅れないよう、ゆっくりと歩き出した。なるべく、なるべく努力はしようと前方に視線を向けるも、すぐに空へ地面へどこかの家の屋根へとふよふよ移動し、挙動不審になってしまう。

「もう少しで着くわ。ちゃんと帰れるように、道は覚えなさいね」

 まあ、ジーニアスなら大丈夫でしょう。村に着てからすぐに教師職に就いて、自分以上に聡明な姉の太鼓判にも、曖昧に頷くだけで精一杯だった。先ほどから向けられる視線の数が増えているような気がした。

「ねえ、姉さ」
「わああああああああああぶないそこどけえー!」

 気を紛らわすための会話をぶった切る大声は突然背後から投げつけられた。次いでかき消すかのような動物の鳴き声が迫って来ている気がする。
 極度の緊張の所為か、全神経が麻痺に近い状態で、上手く反応できない。
「ジーニアスっ」姉の悲鳴に似た高い声を数秒かけて認識したとほぼ同時に、地面と何かの摩擦音と背中にぼふんと何かが当たった感触。耐え切れずに前のめりに倒れて、少しの間中途半端な痛みと対面してから億劫に体を捩る。瞬いた目に大きなよく分からない生き物が伏せってくうんくうんと弱々しく鳴いている姿が映された。

「ごめんごめん、だいじょーぶか?」

 慌てて駆けつけた少年はジーニアスに謝罪を述べつつ手を差し伸べた。いきなりのことに驚いて少年の手を使わずに自分で立ち上がる。すぐに失礼な事をしたと思い至り謝ろうとしたが、少年は気にした風もなく「怪我ないか?」と心配してくれた。

「うん、大丈夫」

 返事をしつつも先程の異様に大きな生き物が気になってしまう。初めて見る動物だった。なんなのだろう。
 ジーニアスの見ている方向がずれているのに気づいたのか、少年は「ああ」と声を漏らした。

「こいつノイシュっていうんだ。でっけー犬だろー?」

 しょげたように垂れた頭を撫でられ気持ち良かったのだろう、わふう、とノイシュは声をあげた。鳴き声からしても大きさからしても、犬なのかは疑わしいが、彼にいわせれば犬らしい。……いや犬ではないだろう。さすがに。

「うわ先生もごめん! だいじょーぶだったか?」
「私は大丈夫よ。あなたこそ大丈夫?」

 ジーニアスが思案している間に少年がようやく姉に気づいたらしく、とても素直に謝っていた。姉を先生と呼んでいるからには学校の生徒なのだろう。結構自分と年が離れているように見える。「へーきへーき」と明るく笑う声が、耳に心地良かった。

「あ、おれロイドな! おまえもこれから学校だろ? 一緒に行こうぜ」

 会話が飛んだのか戻って来たのか分からないが、ジーニアスはつい姉の顔色を伺った。姉は少し驚いていたようだが、すぐに「良い友達ができそうね」と綺麗に微笑んだ。





[2012/08/25 - 再録]