予感はしていた。世界が女神のかき抱くような指先から滑り落ちたときにはすでに、再度、大切な誰かの背を押すのだと。

「おばあさま」

 組んだ両手に視線を落としてから、世界でたった一人の孫はふわりと笑んだ。前を向けば自然と合わさる目線が過ごした歳月をひたりと突きつけ、逃れることのない別れを告げていく。

「ありがとうございました。本当に、一日中言い続けても足りないくらい」

 柔らかい瞳の煌き、負う背中。流れる金髪が既視感を呼ぶ。震える喉からはなにも押し出そうとは思わなかった。ただ、遠い記憶に縫い付けられた手の暖かさを思い出しながら、孫の長い髪に指先を滑らせる。
 少しの間を置いてふわりとはにかむ少女を眺め、自身もこんなふうに笑っていたのだろうかと思案する。

「行って参ります。どうか、お元気で」

 柔らかい足取りで踵を返し、付き人のもとへ向かう十六歳の少女で孫でその前に神子と言うわけの分からない称号を否応なく押し付けられた唯一の救世主。その後姿はひどく頼りない。当たり前だ。

 彼女らの影が米粒程の大きさになるまで離れたころ、知らず嘆息が漏れた。
 取り残されるのはいつもこちらなのに、どうしたって彼女らを責めることのできない世界の営みに理不尽を覚える。けれど、それを具現させるには、あまりにも全てが病んでいた。





[2012/08/25 - 再録]








 ふわりと舞う花の香りが、どうしようもないほどに涙腺を横殴りにする。
 また一周廻ってしまったのだと知覚してしまうのが、ひどく辛くて切なくて優しくて、あの頃から歩き続けてどんどん離れていく記憶の残像が美しいセピアに律されるさまに、失われていく色彩は一体どこに行ってしまうのだろうかと思案する。
 誰かが、永く生き過ぎてど忘れを起こしているだけで、そのうち気まぐれに思い出すのではないかと言っていた気がする。多分、エルフの血脈の域さえをも越えた時間に流され続けた狭間の生命が、どうでもいいように呟いていたのだろう。台詞とともに嘆息が頭の中で響いた。

「ここにいたのね」
「……花。弔おうかと思って」

 気配と声で誰かは理解できたけれど、ぼんやりと地平線へ向けられた視線を曲げる。
 予想に違わず佇んでいた姉は、一度目を瞬かせてから「まだ、続いていたのね」と感嘆とも呆れともつかない柔らかい息を吐き出して、ジーニアスの隣にしゃがみこんだ。
 なだらかに流れる銀髪の先に覗く細められた瞳が思い出から取り出している映像は、間違いなくジーニアスと似たような類だ。それが悲しいのか嬉しいのか懐かしいのか、姉弟であっても正確には推し量ることはできない。

「どんな色がいいかしら」
「暖色系がいいかな。投げ込んだ後も見えやすいし」

 三人で投げ込んだ最初の色合いを思い出そうとしながら座り込み、セピアへと塗り固められた記憶しか引き当てられなくてそっと息を吐く。ふよふよ浮かぶ姿は鮮明なのに、意図的に取り上げられたみたいに海の色さえ茶褐色。

「そうね。黄色とか白とか」
「赤も、欲しいな」
「ええ、入れましょう。花弁は大きめなものの方がいいわよね?」
「うん」

 ぽつりぽつりと交わされる度に、掌中の花の数が増えていく。同時に少し泣きそうな笑顔とか、その次も一緒に行こうって約束しあう声だとか、みんなの両手に抱えた花たちの鼻腔をくすぐるそれとか、沢山のものが遠慮なく鮮明に蘇ってきて、湧き上がる何かを抑えるように、知らず「いい天気だね」と全然関係ない事をごちていた。





[2012/08/25 - 再録]








 頭に響く鈍痛を無理やり無視して獣を剣の柄で叩き伏せる。刃先を向けられなかったのは自身の脳に染み付いた光景が、網膜を一時的に過ぎったからだ。決して情けをかけたわけじゃない。かけるわけがない。
 白の地面に浸る図体から力が抜け切った事を確認してから振り返ると、開口一番に「バッカじゃないの」と怒鳴られた。ああ、大馬鹿だ。そんなの自分が誰よりも身をもって心得ている。
 くしゃりと歪めた少年の顔を見下ろし、敢えて口にすることでもないと早々に本音の扉の鍵を閉めて、代わりに曖昧な笑み(無意識にひねくれるようになったそれを意識的に幾分か緩めて)を残す。  がくり、と我ながら間抜けに膝が折れる。少年の星色の髪が飛び跳ねた。
 こんな甘ーい判断を選択するような人間ではなかったはずなのにな。長年の自負も形無しじゃねーの。
 ぼんやりと開いた口から吐息だけが零れ落ちる。それもこれも今までただ一人で立ちすくんでいた雪原に踏み入る奴らが増えた所為だ、と内心毒づきながらも、染まる視界の色が鮮やかな白で、ほんの少しだけ安堵した。 





[2012/08/25 - 再録]








 どこにでも小さくほころぶ花弁にこれほど喜んだことはなかった。これ以上喜ぶことも、もうない。




 微風とともに頬を撫でていく植物の生きる香りが心地よかった。時を過ごしていく土地を変えたためにとんと触れる機会が減ったそれが、肩に乗ったままだれ続ける緊張を攫っていくようで、自然と呼吸が楽になる。もしかしたら、ただ単にしなくなっただけなのかもしれないのだけれど。

「だいすきです。だいすきでした」

 自分が本当に喋っているのかわからない。喉を通り抜ける空気の流れはなんとなく感じるけれど、それが彼の鼓膜を打ち奮わせるに至るものであるのかは、すでに機能を放棄し始めたらしい聴覚から伺うことはできなかった。
 別にそれでも構わない。我が侭を言って良いのなら、彼の声を聞いていたかったけれど。開いた唇から零れ落ちる言霊さえも、変容した体をすり抜けていく気がする。もうしわけなくてかなしくて、それなのになにもできなかった。

「ありがとう。ごめんなさい。ありがとう」

 ぼやけて狭くなる視界に花の残像が重なる。少し前にも足を運んだ、両目一杯に広がる白と緑がひどく懐かしいものに思えた。

(できることなら、いちどだけ。さんにんで、あのはなにかこまれて)

 胸元に埋め込まれた石が疼く。もうさよならの時間だよ、と声を立ててわらいながら泣いてるみたいだった。





[2012/08/25 - 再録]








 しばらく来ないうちに、また変なものが増えたねえ。

 挨拶もそこそこに漂う視線を留めることなく巡らす彼女はひどく呆れて、脱力に似た形で肩を落とした。直情的な彼女の口から自然と零れたものなのだから、きっとそうなのだろう。
 コレット自身も妙な置物とか増えたなあと思っていたし、正直ちょっと置く場所がなくなってきたのだが、それもこれも善意からなる行為であったので無下に断ることが出来ずにいた。少し苦めの微笑が顔中に滲んだ気がする。
 その様を捕らえた彼女の瞳が僅かに揺れてふわりと逸れる。変わりに残ったわだかまりを誤魔化すように、「魔除けになりそうだねえ」と手近なものを掴んでコレットよりよっぽど素直な表情を見せた。

「つらく、ないのかい」

 ことり、と置物を机に戻した奏でとともに流れてきたそれに、コレットは眼を瞬かせた。声色を下げ気味に呟かれた言葉の意味を咀嚼するのに時間がかかってしまったのは、それがあまりにも想定外な問いかけだったからだ。
 何度も何度も考えてみたけれども、裏に隠された真意が読み取れず、結局「えと、なんのこと」と返してしまった。質問に質問を重ねるのは好きじゃないのだけれど。

「なにって、今まであいつらと一緒だったんだろ?」

 それなのに、独りでこうしてるなんてさ。語尾へ行くにつれて曖昧に音が濁る言葉の外でそう言われた気がして、コレットは今度こそ苦笑の色に顔を染めた。なんとなく、彼女の心中を察せた。

「そうだね。ずっと一緒だった。だけどそれが永遠じゃないって、みんな知ってたよ」

 驚いたように勢い込んで彼女はコレットを振り向いたが、すぐに唇をかみ締めて何かに耐えようとし始めた。私はどんな顔をしていたのだろうか。
 緩やかな困惑を抱えながら小首を傾げたら、生暖かい何かが幾筋にも渡って頬を伝っていくのを確かに感じ取った。




 分かっていたことなのに、なんでこんなに溢れてくるんだろう。





[2012/08/25 - 再録]