ゆらゆら揺れる意識が、心地よくまどろみを泳ぐ。ずっと遠くから耳に届く音が、どこかを境に弾かれ残響だけを置いて去っていくのをぼんやりと理解する。息遣いの代わりに周囲を蔓延る不安定感は、けれど心を落ち着かせてくれる。水の中にいるような、どうしようもなく広大なのに包み込まれる気分のする不思議な空間だった。
きっとここで一生ふよふよ浮かびながらだらだら過ごすんだろうなー。あまり考える事に労力を使わない頭でなんとなく思う。勉強しないで宿題もしないで(あ、これはいいかもしれない)先生に叱られなくてすむし(それだけチョークも無駄にならないから「けいざいてき」)ノイシュの毛づくろいもなくて(多分親父が代わりにやってくれるだろ)誰とも遊ぶことも、なくて。それどころか喋ることも、なくて。
ゆらり。どこからともなくやってきた人影がふたつ、ただただロイドを見つめた。顔はぼやけて分からなかったけれど、確かに知っている人だと、脳内が焦りのあまりつんのめりながら直感を運んでくる。何か言おうとして、それでも何を言えばいいのか分からなくて口ごもった時、ようやく喉がからからなのだと知った。
ふいに二つの影が踵を返した。少しずつ離れていく距離よりも遥かに遠くのような気がした。僅かな既視感が体中をのた打ち回る。背中に何かが圧し掛かった。重かった。けれどそれよりも、胸が締め付けられる圧迫感が苦しかった。苦しくて思わず手を伸ばす。捕まえた彼らじゃない誰かの手が触れ、衝動的に引っ張る。頭に鈍い衝撃が落ちてきた。
「ったー……」
「あ、ごめん。つい」
頭の上から覗き込むように下りてきた声と瞳を理解するのに数秒要してからとりあえずへばりついた机から思い切り起き上がる。うわっと小さく響いた悲鳴の後に尻餅をつく音(といえば軽そうだが後ろの机と衝突したためか盛大だった)が鼓膜を殴った。
「ちょっとロイド、仕返しだとしてもこれはないんじゃないのっ」
「あーごめん。つい」
ついさっき聞いたそれと同じような謝罪を先に述べてから「つーかなんで俺叩かれてんだよ」と至極当然の疑問を添えて、背もたれの上に腕をかけつつ振り返る。ぎしりと木椅子が何かを訴えたが、日常茶飯事過ぎてどの不満なのかロイドには分からなかった。
「いきなりコレットの手をつかんだから、一応止めてみただけだよ」
代償大きすぎだよ、全く。机にぶつけたらしい頭をさすりながら立ち上がったジーニアスが空いているほうの手で人差し指をたてたので、自然と視線がその先を探り出す。
ロイドの頭を通り抜けて空中浮遊を繰り返し、真直ぐ辿っていったその先で、ロイドの掌が自身より一回り小さい掌をひったくるように捕まえていた。そこから腕を伝い顔を伺うと、焦りや困惑の類を滲ませた表情が控えめにロイドを見つめていて、「あー」今更色々な事を理解した。
「だいじょぶ、ロイド?」
「大丈夫。ごめんな、いきなり」
なんだか気恥ずかしくてぱっと手を離す。コレットは一瞬少し寂しそうな表情をしたが、「ううん」と軽く首を振ったときにはふんわりとした笑みを乗せていた。
「ほら、立って立って。僕ん家に来るんでしょ?」
「あれ、授業は――」
呟いた瞬間、ものすごい呆れた視線が突き刺さった。地味に痛い攻撃から逃れるように顔を背けた拍子に、いやに教室内がすかすかなことに気づく。ついでに窓から赤く染まった光が零れている光景に目を見張った。
「先生、起こしてくれなかったのか?」
「ロイドが授業終わった途端に寝始めるなんて器用な事をしなかったら、きっとチョークが突撃だったんだろうけどね」
「先生ね、チョークが折れちゃうから、投げるのを最低限に減らすようにしたんだって」
運が良いのか悪いのかははなはだ疑問だが、額に迫る鈍痛を一回分回避できたことは確からしい。
「待ってて、くれたのか?」
敢えて訊く必要もなかっただろうに、知らず問いが口から零れ落ちた。脳裏に夢(と解釈していいのかは不明だが)の残像が曖昧に駆け巡る。彼らはどんな顔で自分に背を向けたのだろうか。
「最初、あまりにも気持ちよさそうに寝てるから待ってたんだけどね」
「さっきね、少し苦しそうに見えたから。起こしちゃった」
少し舌を出して見せた二人がロイドの隣に回りこみ、片腕ずつ持ち上げて強制的に立たせる。
ふわり。どこからか紛れ込んできた風が頬を撫でていった。
[2012/08/25 - 再録]