また、会いにくるよ。ゆらゆらたゆたう鏡の反対側から、君の両手に余る笑顔を届けに。




 気づいた時にはすでに赤みを帯びた光が頬を照らすくらいに闇の気配を滲ませていて、ロイドは心臓を大きく震わせた。瞬時に走った動揺のために、危うく手元を飾る彼女らを取り落とし、余計に気の揺れが激しくなる。
 やばい。脳裏に素早く駆け巡った言葉はまずそれで、後を追うように「おまえらそんなに体力ないだろー」「俺だけの方が小回り効くし」「さっくり行って来るから待ってろよ!」なんて文句が自分の声で再現される。明らかに全部自身が口走った言葉達で、余計なこと言わなきゃよかったと内心舌打ちした。
 足元に散らばる美しく色付いた彼女達をかき集めながら、目的地へ赴く上で注ぎ込まざるをえない時間がいかほどか思案する。呑気に歩けばどっぷりと暗がりに浸かることになるだろうが、走ればあるいは彼女の門限には間に合うかもしれない。
 可能性があるのなら、走るしかない。
 単純かつ間違いのない判断をわりと野生の勘に近いもので数少ない選択肢の中から奪取し、それより僅かばかり早く、足が動きだしていた。




 * * *




 沈みゆく紅の円光が徐々に深い青へ溶け込んでいくにつれ、どうしようもなくジーニアスの胸をちりちりと焼いては臥せって薄まる。ほんのりと潮を感じさせる風が分け与えてくれるものが涼しさから肌寒さへと移り変わっていくのを、ただ呆然と受け入れるしかない状況が歯痒い。
 隣で静かに佇み続ける少女の表情を覗きこむことがひどく悪いことのように思えて仕方なく、どこかよそよそしい雰囲気を否とする項目が存在しない事実が、不甲斐なさを開けっ広げにしていた。
 駄目だなあ、と自身に確かな落胆を覚える。先に線を引いたのは間違いなく自分であるのに、なにを今更漂う距離感に傷ついているのか。弱々しい叱咤は胸の中から飛び出すことはなく、臆病さに飲み込まれるだけだった。

「あの、ね」

 不意に鼓膜を触れた少女の声に、飛び上がる寸前の肩の勢いを必死に押し殺す。声への驚きを消化しつつ言葉もろとも反芻して、いつも教室の中で響かせるそれの上に薄く伸びる戸惑いを見つけて、勝手に悲しくなる。「なに」と居たたまれなくて催促のために入れた言葉は、愛想がないだけに留まらず見事に掠れる。駄目なところばかりが表面に浮き出て、自身に嫌気がさした。

「あ、ごめんね。いきなりはびっくりするよね」
「そんなこと、ないけど」
「そっか。ごめんね」

 多分少女はこちらにほんの少し揺れた視線を寄せているのだろうと、ジーニアスは遠目から見る日頃の彼女の所作を思い返し推測したが、自分の瞳を彼女の方へ向けることを憚った。向き合ったら、自分たちの厚くももろい嘘をあの純水ほどに透き通る蒼に看破されてしまうような気がして怖かった。もしかしたら彼女の特異な境遇から、人の心を読み取るに類似する能力があるのでは、と無意識に勘繰っていたのかもしれない。

「あの、ごめんね。わたしのせいで。えっと、こんなに遅くなっちゃって、先生に怒られない?」

 怒られる可能性は捨てきれないが、心配してそわそわ動き回っているかもしれない。正直判らなかったので「多分大丈夫」と嘘にならない範囲で最善と思われる返答を選ぶと、途端に力の抜けた吐息が訪れて、思わず少女に向き直った。網膜が認識したのは、抜け切らない戸惑いに柔らかいはにかみが塗り重ねられた、少女の穏やかな安堵だった。




 * * *




 村を一直線に横切る際に飛ばされた疑問は全部適当に振り払って(なんと答えたのかはすでに覚えていない。最悪なにも言わずに突っ走ったかもしれないので明日再度問いただされる覚悟はしておくべきだが、今は今、明日は明日、だ)聖堂へと続く道の中腹あたりの近辺で、一番綺麗に海の見える場所へ足を急がせる。落ち込んだ日の光が最後のきらめきを残して視界から去っていくのを恨みつつも、ようやく見えた金と銀に胸をなでおろした。

「悪い、遅れたっ」

 呼吸に合わせて投げた声に二人の横顔が反応する。歩調を緩めて近づいていく間にコレットもジーニアスもロイドに視線をよこし、ゆっくりと立ち上がって口々にロイドと呼びかけてくれる。
 全力疾走だったため息を整えるのに少しだけ時間を要し、幾分か間を置いてから「おう」と苦笑した。

「お疲れさま」

 弛緩する頬に気づいていないのか、ジーニアスがいつもの少し硬い表情を崩して労いの言葉を控えめに呟いた。転校生はどこでもそうなのか分からないが、何かにつけて頑なだった彼が自分から歩み寄ってきてくれた事は素直に嬉しい。

「おかえ……あ」

 途中で言葉をぶった切ったコレットの視線が一箇所に固まる。なんだろう。不思議に思い蒼の瞳が映し出すものを見やると、手元から溢れ出す花々が色をぼやかせてぐったりとくたびれていた。同様にロイドの手中を見たのだろう、ジーニアスが「あ」と音を零す。

「ごめ、慌ててたからっ」
「ううん。急いで来てくれたんだよね。ありがとう、ロイド」

 本当にありがとう。これであの子を弔えるね。
 ロイドの手から丁寧に花束を受け取り、コレットは一度胸の前でゆるく抱きしめてから、海と空の溶け合う境界めがけて放り投げた。空気の抵抗をその弱々しい身に吸い込み、やがて大自然の鏡に波紋を散らす。ふわふわ漂う彼女らは世界のどこかで意図なく蠢く命のように、表面上は自由気ままなのに、その実逃れられない波に抗う術を持たず、ただただ飲み込まれていく。




「帰ろう。ロイド、えっと、ジーニアス」

 浮かんだり沈んだりを繰り返す白や黄、桃色をぼんやりと眼で追いかけてしばらく、波打つうねりと風の髪を攫う声に満たされた空間へ言葉の雫を落としたのはコレットだった。顔にかかる陰影が心の裂けた所へ引っかかり、喉に詰まった言葉が何なのか分からないまま曖昧に顔を歪める。

「あのっ」

 どうしようもない中、自然と足が村の方向へ向きかけたとき、ジーニアスの制止が静かな夜の空気を震わせた。まだ年端もいかない少年の小さな掌がぎゅっと握り締められ、短い爪が食い込んでいた。

「あの、また一緒に来よう。今度はみんなで花を摘んで、みんなであげよう。ね、ロイド。……コ、レット」

 たくさんの逡巡を経てからジーニアスは最後にコレットの名を添えて、視線を微妙に逸らしながらも不安げにコレットを見上げる。ロイドもそっとコレットの顔色を伺うと、泣きそうなのにすごく嬉しそうな、慈愛に似た綺麗な笑顔を満面に浮かべて大きく首を縦に動かしていた。途端にジーニアスの肩がすっと軽くなったように見え、ロイドも嬉しくなってくしゃりとジーニアスの頭を乱暴に撫でる。「なんだよう」と軽い抵抗が手袋越しに伝わってきたが、それさえもみんなが一斉に手繰り寄せた一人一人の居場所が重なった結果のような気がして急速にこみ上げる喜びに心が躍るばかりだった。








ジーニアスもコレットも、最初はいいようのない距離があったと思うのです。
[2012/08/25 - 再録]