歩く度に押し寄せる土の反発。髪をさらい頬を滑る風の体温。滲みだす痛みや衝撃。凍りついた湖が雪融けに踏み出す瞬間の瞳。
 たくさんの当たり前は世界に蝕まれ、コレットの元に届ける余裕がなくなってしまった。壁を隔てた向こう側をただただ物欲しげに見つめることしかできない状況に胸が締め付けられる。けれどなにより心の空洞を悲しさで抱き止めたのは、触れるぬくもりが綺麗な対極で背を向け続けている現実だった。
(存続する世界の倣わしをその身に降り注がれた天使の子らは、変わりなく愛し続けることができたのでしょうか。わたしはもしかしたら誰よりも恵まれた中で命を終えるのではないのかと思えてならないのです)
(それだけわたしは、幸せなんですよね)




 なにかあったらすぐに言えよ、と交互にいたわりの言葉をかけてくる彼らはひどく優しい人たちだと、コレットは誰よりも知っている。口に入れればすぐに解けて広がるわたあめのように、柔らかく直情的に伸びる甘美を染み渡らせてると同時に、儚く四散する声に切なさが淡く胸を叩く。
 ありがとう。だいじょぶだよ。
 本当に大丈夫、今も明日も。その言葉が指伝いにでも届く事を祈りつつ、いまだ言い足りないような仕草を繰り返す少年達に緩く手を振り、二人の影が隣の部屋へ飲み込まれていくのを確認してから唇を噛んだ。
 ぱたりと閉じた扉を背に、小さく息をつく。備え付けの机に向かって魔物の特性をまとめていたリフィルがこちらをそっと見つめ表情を僅かに曇らせているのに、コレットは胸中で謝罪を紡いだ。不運にも旅の終わりを知る彼女には、今でも申し訳なく思っている。知らなければただ純粋に再生へと歩を進めることができたのに、終焉の証明があまりにも真直ぐに言葉の響きを尊重するため故の戸惑いはきっと捨てきれないし、その後の消える事を知らない傷跡が時折痛みを主張するのだろう。
 先生も、早めに休んでくださいね。
 ゆっくりと動かした唇から音は漏れない。それでも大体の内容を把握したのだろう、一拍置いてからリフィルは短く返答を投げた。数秒もたたないうちにコレットから外された視線がゆるりと冊子に戻る際に見せた瞳の揺れが、夜風に当たってくると部屋を後にした時のしいなの顔色に重なった。それ以上言える言葉も言おうとした想いも内包されて、足早にベッドへ向かい飛びつくようにうつぶせに潜り込む。
 日が暮れる、夜が訪れる。肌で感じられない時の巡りに心が殴られるのは今宵が最後なのだと歯を食いしばって耐える試練が、寝台の隣で寄り添う仄かな灯火の存在が助長するにつれて開幕するのだと思うと、自然に少しだけ伏せた瞼が光を遮断した。




私は幸せに消えていけるかもしれない。けれど、彼らは彼女らは。








(残る足枷はたった一つ。鍵を握るのは、私じゃなくて)
[2012/08/25 - 再録]