その日、自分を人間と仮定した日々が亡くなった。
 当たり前といえば当たり前だと思えるくらい、何もかもを割り切れるくらいの力量があれば、あるいはもう少しまっとうに生きることへの執着を示す事に成功していたのかもしれないと思うと、フェアはすごく滑稽にその姿が映っていたのだろうと自嘲する。
 そんなもの、最初から無責任な親に押し付けられた都合の良い夢だったというのだから!
 夢は覚めてしまうものだと知ったときの、例えようのない落胆を鮮明に思い出して、ひっそりと分岐を示した道化の道をフェアはふいに見つめた。眼を逸らしてばかりで真っ向からみてあげられなかった、たった一つの。




 泉はいつにも増してよどんでいる。群青色に染まった水が、己の汚れを違う水にとがむしゃらに移して、更に別の水が受け取ってしまった汚色を飛ばしているように、フェアの据わった目に映った。四方八方で同じような事を連帯で続けているから、悪循環以外のなにものでもない。
 投げ飛ばしたものが空気から埃やごみを受け取って更に汚れる事に、なぜ気づかないのだろう。傍から見ている見解だからかもしれなかったが、少なくともフェアは馬鹿げていると思った。まるで人間たちの責任逃れを実践して見せているようで気分が悪い。

「――何しに来たの、ギアン」

 それでもその水面の先に愛すべき母の面影が揺らめくのを知って、利き手で泉の水をかき回す。波紋が続けざまに水面に走り、面白がるよう口の端を曲げてから、先ほどから後ろで気配を消すことなく至って普通に、行列のできる店の前に並んで待ちぼうけを食っているような佇み方をしている気がする青年に声を投げる。
 手に湿る水気と濁った色を振り払いはせず、立ち上がるのもそこそこに自然体で振り返り、改めて青年に瞳を向けた。構える必要はないと思った。雰囲気が敵対を示していない。圧倒的な力を覗かせる事もなく、青年はいたって普通にそこにいた。
 青年はフェアの顔色をじっと眺めた後、何にも臆する事のないいつもの調子で肩をすくめて見せた。フェアの目の色が若干悲壮じみていたのかもしれない。ひたすらに冷静な気がするのだが、それは思い上がりなのだろうかとフェアは首を傾げる。

「君と話をするために来たのさ。最初に断っておくけれど、できる範囲でいろいろ調べさせてもらったから、いちいち何で知っているのかと愚問を問わないようにしてくれ」

 フェアは無言で頷いた。フェアよりもはるかに高い身長で枯れ木に混じりそこに立つ青年の髪は、灼熱のごとく艶やかな赤さを帯びて人目を引く。もしかしたらこの森を焼いてしまったのは彼なのかもしれないと一瞬思ってしまうくらいの、何かに対する底知れない狂った感情があるのではないかと直感的に感じた。
 青年はまず、フェアに多少の知識を与えてくれた。古株が妖精樹であったという事、フェアの出生の真実、響界種の差別の特異さについて、そんなフェアに直接関係する事柄をかいつまんで話す。その間フェアは青年の一動一動を眺め、ゆっくり疑問を解消していった。けれどもこれが全部真実かどうかの確信はない。必要とあらば仲間にさえも嘘を提示し操る男だった。

「それが本当だという証拠は?」
「君自体が持っているだろう」

 まさか私を疑うのかい?といった言葉は一切青年の口をついて出る事はなく、ただフェアの問いに答えるだけだった。古株の断面に置いた手を離してまっすぐに立ち、フェアに視線を送る。

「じゃあ、一つだけ質問」
「どうぞ」

 私塾に通っていたときのように小さく手を上げる。敬愛する先生に教え込まれたその癖が今でも抜けず、時折反射的にしてしまうのだった。

「目的は? エニシアの願いをかなえることだけじゃないのでしょう」
「知りたいのかい?」
「少なくとも、知らないで仲間になってくれと頼むヒトにはついていきたくないわね」

 青年は高らかに笑った。これは本当に面白い、とどこかのサーカス団を誉めるような少し嘲った感じの残る笑い方。青年はひとしきり大声を上げてから、復讐のためさ、とごく簡単にのたまった。
 それから彼の生い立ちや憎むべき相手、そしてお守りを作ってくれた母の話を順に披露して、お守りを懐から大事そうに取り出したときに、フェアは少しだけ見せてもらった。そっとお守りに触れたとき、若干光がほとばしったがフェアは何もいわず、よく分かったとだけ伝える。
 本当によく分かったのだから嘘ではないのだが、青年にはまじまじと顔を見られてしまった。何か変な事を言ったのかなと探ってみるが、ああ、と推測に思い当たり結局何も言わなかった。

「まあ、信じるかどうかは君次第という事でいいけれど。さて、ここからが本題だ。私と一緒にこないか、フェア。エニシアも喜んでくれる」

 青年は冗談交じりにフェアの人を信じる力を問い、本題と称された勧誘を口にしつつ、数歩フェアに近づいた。
 後三歩分の距離を残して立ち止まり、手を差し伸べてくる。手を握るとなればフェアが何歩か歩かなければならない位置だった。
 誘いに来たらしいのに試されている、とフェアは胸中笑みを深める。なんてずる賢い男なのでしょう。そしてそれを見て笑みがこぼれてしまう私はどれだけ彼の事を想っているのでしょう。

「貴方は、喜んでくれるの?」

 足を棒にしたまま、フェアは務めて無表情で呟いた。たった一つ、大事なものが見つかった子どもみたいに目を輝かせて。青年は数回瞬きをして、少し口の端を吊り上げる。

「もちろん。誰よりもどんな事よりも、最高の喜びさ。だから、」

 ひゅん、とフェアの耳元を通り抜けるものがあった。枯れ木に矢が突き刺さる音がしたとほぼ同時に、セルファンの戦士と思しき罵声が飛んでくる。

「やれやれ、とんだ邪魔が入ってきてしまったな」

 次々と誰かの声が矢継ぎ早に聞こえてくるものの、何を言っているのかフェアの脳では理解を拒否していた。
 それより、ねえ、誰か聞いて! こんなに素敵な道があったの、わたしがわたしでいる道が、あったのよ! 歓喜に震えるフェアの耳には、それでも青年の落ち着いた、若干皮肉めいた声だけを拾って神経系を通じて脳頭が知らないうちに理解する。

「じゃあフェア、待っているから。結論が出たら平原だ」

 フェアは必死に喜びを抑えて今にも饒舌にしゃべくりだしそうな口を閉め、何も言わずに青年を見返し、青年はそれに笑みを見せただけで枯れ木の森の中へ姿を消した。また周囲で大丈夫か、何かされなかったかとここにざわめく仲間たちに、大丈夫とだけ告げて、半ば強制的に部屋へ帰らせてもらった。後ろから不安そうにちょこちょことついてくる、我侭一つ言わない優しい竜の子の頭をそっと撫でながら。





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[2012/08/25 - 再録]