切り株の前でフェアは泣いていた。
 小さな肢体をひんやり冷たい地面につけて、手に持った子どもが持つようなものではない剣を投げ捨てて、声をあげながら泣いていた。
 澄み渡った空はあきれたようにフェアを見下ろしていることにフェアは気づかず、太陽がさんさんと必死に元気を分け与えてくれているのにも気づく余裕がなかった。

「だー、いいか、フェア。これから教えてやるのは親父様が編み出した秘伝の奥義だ。泣くのをやめたら、特別に、おまえには教えてやろう」

 鼻高々に腰に手を当て立っていた父の背はすぐ丸くなり、幼いフェアと目線を近づけるために足を折ってかがんだ。それでもフェアにとっては酷く高くみえ、逆光を背で浴びる父の顔は陰って見えにくかった。
 背が高くてかっこよくて強いのが「スーパーヒーロ−」なのだと、父は嬉しそうに、その悪がきを無理やり大人にしたような顔の口の端を曲げて言っていたのを思い出すが、けれども今は影のせいで悪者のように映る。

「なあに、おとうさん。おしえて!」

 それでも父はスーパーヒーローなのだと教え込まれていたので、ということはスーパーヒーローからかっこいい技を教えてもらえるということだと、フェアは解釈した。
 途端フェアの声はぱっと明るくなり、すぐ涙を拭いて泣いていないことを強調した。現金だな、と感じるものはこの場にいない。ただ父の目には扱いやすい子どもと映っていたに違いないと、フェアはなぜか客観的にそう思った。

「よーし、それじゃあ心して聞け! それはな、」

 夢中に目を輝かせて聞き入る少女の視界が唐突に切れた。びくりと体が波打ち短く悲鳴を上げた次の瞬間には、視線も服も変わっていてぎょっとした。それは先程よりもずっと大きな、けれどまだ育ち盛りの自分の体だった。

「フェア、くれぐれも忘れるなよ? おまえは頭で考えるより勘で行動した方が絶対上手く行く」

 暗に馬鹿だと示されたような気がするが、口が勝手に「うん、おとうさん!」と動いていた。鼓膜を揺るがすこの音は先程よりも落ち着いたように取れる、間違いようのない自分の声。座り込んでいるのは自分の体。
 フェアは驚愕しながら手をまじまじと見、そういえばその時奥義も減ったくれもない無駄話を教えられた事をふいに思い出し、文句を言っておこうと口を開いて、

「お母さん」

 ベッドの上で転がっている自分に気づいた。心配そうに顔を覗き込む尻尾の生えた子どもに「大丈夫?」と声をかけられ、若干引きつった笑みで頷く。
 薄く汗が顔を濡らし、髪が張り付いて気持ち悪い。部屋に戻って嬉しくて、うっかり寝てしまったようだった。
 湿ったベッドと夢の内容に顔をしかめながらフェアは起き上がった。夢を、見た。フェアにとっては昔々の、まだ父親に確固たる親愛を持っていたあの頃の。
 なぜあえてその夢を見たのかは分からないが、それはなんだか忠告のように思えた。何の忠告か、なんて聞かれなくても分かっている。
 でも残念、心はもう決まっているの、馬鹿親父。わたしはわたしの意志を貫きます。あなたがあなたの意志を貫こうとしているように。

「もう、大丈夫なの」

 血は繋がってないものの親子の関係に類似した関係を持つ竜の子が、弱々しい風のような声をあげた。言葉の裏に先ほどとは違ったニュアンスが感じられ、フェアは袖で汗を拭いながら心を落ち着かせて応対する。

「大丈夫も何も、そっちのことなら全然」

 コーラルの瞳が揺らぐのを見、フェアはコーラルの頭を撫でた。心配性の優しい子どもはゆっくり顔を俯ける。無理して笑っているように見えるのだろうか。
 少し思索して、フェアは汗ばんだままで申し訳ないと思いつつも、コーラルの体をひょいと持ち上げて自分の前に降ろし、後ろから抱きしめた。

「コーラル、私は今、何も問題を持っちゃいないわ。やりたいことはもう決まっているから、安心してちょうだい」

 一つに結った金髪を避けて、フェアは肩の辺りに頭をうずめて囁いた。小さな肩がゆっくりと緊張を解き、コーラルはお母さん、と再度フェアを呼ぶ。

「僕はお母さんを裏切らないよ。お母さんがお母さんを裏切らない限り、ずっと、ずっと」

 かすかに目の奥が熱くなるのを感じながら、フェアはありがとうと呟き、コーラルを離しながら、シャワーを浴びてから平原へ向かう旨を伝えた。
 コーラルは何の迷いもなく頷き、みんなを呼んでくると部屋を走って退出する。子どもの後姿を見届けて、フェアはベッドの上から這い出て着替えをひっつかみ、開いたままの扉から廊下へ出た。





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[2012/08/25 - 再録]