「わたしはわたしはしあわせにならなきゃいけないの、ふこうにしたみんなのぶんまで、や、やくそくした!」

 少女の甲高い声が広間一杯に響き渡る。反響した言葉が後に続く文句を飲み込んで、雑音が増幅していくよう。コーラルは眼を細めて平静に状況を見守っていた。
 皆ずっと精一杯だった。等しく「幸せになりたい」と心を震わせ、ただその目的物に向かって進んでいっただけだった。嘘も真実もその絶対的な境を越えて混雑した中でに放り込まれた上で、ひたすらに走っていっただけだったのに。反発や抜け駆け、ありとあらゆる卑劣に部類される手段で、きらきら輝きを放つ未来を手に入れようとした。希望とも呼べるそれに照らされた自分の手が、思いのほか赤や黒で汚れていたときに走る衝撃のように、今の少女は、コーラルが愛して止まぬ親は、それを感じたに違いない。
 際限なく溢れる涙を、少女の七分丈のズボンがその身に吸い込み滲んでいく。流した涙が瞳の奥に戻らないように、少女の過ちはすでに正すことの出来ない域に達している事を、現隠れ里の住人は知っている。どこで正規の道を見誤ったのか、答えは明白であったがコーラルは何もいえなかった。少女と同じように、認めることが酷く怖かった。

「こわれたなにがこわれたの、みんなどこわたしはなぜいきているの、なんでぎあんはここにいないのかえってこないのっ」

 少女の手に握られた紙切れはもうすでに涙でふやけ字はぼやけ、ぐじょぐじょだった。誰一人としてそこに綴られた文字を認識できない。紙切れを見たのは少女だけだった。その内容の少女だけが知っている。少女の発狂は耳に余韻を残す。決して心地の良いものではないそれに、コーラルは小さく顔をしかめ、紙切れに残された内容を勝手に推測してみる。
 おそらく、数日城を空ける手紙。メモ書きならよくしていたし、この状況は今日に限ったことではない。騒ぎ散らした後はころりと表情を豹変させて、いつものおせっかいな母に戻るから、そこまで心配するものではないとコーラルは割り切っていた。杞憂の分だけ疲れが伴うのを、コーラルはここ数年でよく理解している。
 ごめんなさい。誰一人として幸せにはなれませんでした。
 いつだか母に、嬉しそうで悲しそうな瞳で一通の紙を見せられた事を思い出す。結局返信は書かずじまいで、数年前に遣いはもう一つの居場所に帰っていってしまった。もしかしたらそれでよかったのかもしれないと、あの時少しだけごねた事を棚上げしてコーラルは嘆息する。
 彼女は誰も知らない彼女だった。好かれていた彼女は彼女自身に飲まれ、彼女は変わった。立場も変わった。姫君は幽閉、半間の娘や獣の王は姫君の世話。他の、彼の手駒はもういなかった。どこへ消えていったのかは、コーラルには分からない。

「も、し……い」

 次の瞬間発せられる少女の断末魔のような叫びに備えて、コーラルは両手で耳を塞いだ。ごめんなさい、これだけは現実から背けさせて。
 この世は誰一人として幸せにはなれないんだとコーラルは認め、人をもつんざく悲鳴を手の壁一枚越しに届き、まぶたを閉じた。それでも彼女の狂った愛は届かない。彼も充分狂ってしまっているけれど、今は距離が遠すぎた。
 次に世界を見回すときには、どうかせめて昔の彼女の仮面がそこにありますように。コーラルはそう心の底から念じながら、ゆっくり眼を開け放った。





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[2012/08/25 - 再録]