どうかあなたはいつまでも変わらないでいてそうでないと僕達は何かが壊れてもう日常には戻れない戻らせてはくれない誰も誰一人としてあなたを止めることなど出来ないのだからどうかどうかあなた自身で踏みとどまってそれがどんなに薄汚い願いであってもあなたは受け入れてくれる事をよく知っているから(それでも優しいあなたは苦しんでいる人のために何かを犠牲にする事を、きっと惜しまないのだろう。それがたとえ今まで築き上げてきた「あなた」であっても)




 止められなかったと知るのは存外に早かった。少年はとても悔やみはしたが、どこか心が割り切っていることに誰よりも気づいている。強い衝撃で感情が抜け落ちてしまったというわけではなく、それが彼女の最善だとなぜか信じていたからだった。

「ねえさん、まだ泣いてるの」
「泣いてなんかない。元から顔が濡れていただけ」

 少年の姉は流し台の前で、体育座りの形で足に顔をうずめていた。
 光はどこからも指してはおらず、薄暗さが目立ち、どこか陰気だった。いつもなら銀の髪を纏め上げてエプロンを纏った少女が忙しく厨房内を行き来するそこに、少年より早く世界に生れ落ち召喚術の才能に恵まれた姉が誰にも文句を言われずひっそりと涙を零していられるのは、姉弟が慕った少女がいないことに他ならなかった。

「ねえ、どうしてこうなってしまったの」

 通常なら少年の意見に耳を貸すことなどめったにないリシェルと名づけられた少女は、今は例外とばかりに言葉を求めた。唐突に当たり前が消えたのだと力いっぱい思い知らされたリシェルは、当たり前のときでは座ることなどできっこない場所に腰を降ろして小さく肩を震わせている。少年は腕を組んで少し考え、やがてまったく関係を持たない一つの答えを導いた。

「こうなる事を、なんとなく分かっていたんじゃないの、ねえさんも」

 リシェルは少年とまったく変わらないのだ、だからこそこうやって少女の面影の残る位置でじっと待っていたのだ。

「ああ、ルシアンも、か」

 ようやく顔をあげてリシェルは弱く笑った。涙はすでに乾ききってこびり付き、リシェルの表情を引きつらせている。涙こそ浮かべてはいなかったものの、小さな打撃がその身に走っただけで泣き始めてしまいそうなくらい危うかった。

「うん、分かってた。あの子とギアンは似ているもの。惹かれるってことくらい、私には分かってた」

 僕も分かってた、なんていわなくてもリシェルには伝わっていると少年は確信を得ていたのであえて何も言わなかった。血の繋がりがはっきりとは見えなくても、それでも間違いなく姉弟であると脳が理解していたから。

「召喚獣たちの気持ちがやっと理解できた。こんなにもぽっかりと心が抜けちゃうんだ」
「これよりも、ずっと辛いんだろうけど」

 リシェルはおもむろにポケットから灰色の石を取り出した。少女らしい小さくもすらりとした指が石と絡み合い、時折リシェルの魔力に反応して淡く光を帯びる。

「ルシアン」

 リシェルの声に反応し少年は腰にさした剣の柄を握りしめ、意図的に放り出された誰かの人生を駄目にする呪われた石の、寸分違わず中心を凪いだ。割られた断面からぼろぼろと崩れていくさまを眺め、少年は呪縛から解放された誰かを見たような気がした。

「――ああ、かみさま。フェアがいっていたかみさまが、もしこのよにいるのなら、」

「どうか、せめてフェアさんの幸せだけでも叶えてください」

 金髪を揺らし天井を仰ぐ姉の言葉を少年は受け継いだ。ほら、フェアさんがいないとこんなにもあっさりと諦めてしまう。あのひとが少年達の世界を支えていた。大黒柱のなくなった小さく優しい雰囲気溢れる家も、空気だけじゃ支えきれないようにがらがらと崩れていく。丁度目の前で粉々に砕かれたそれみたいに。
 ふわり、とリシェルの帽子が金髪の流れに従い落ちて床に当たるまで、少年はまぶたを閉じてもう一度、囁くように願った。
 どうかかみさま。これいじょうやさしいあのひとを、きずつけないでください。
 これで誰も幸せを手に入れられないというのなら、世の中は根本から腐っていると、少年は剣を鞘に収めながら苦笑した。





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[2012/08/25 - 再録]