エニシアの悲願が叶った。妖精郷には入れなかったけれど、頭を撫でてもらったって喜んでいた。
 おめでとうといったら複雑な顔をされたのが酷く悲しかった。エニシアはやっぱり、違う形を望んでいたのだろうか。それでもフェアにとってこれは最善だった。これ以上誰も傷つけずに終わらせるには、これが最善だと思った。それは今も疑ってなどいない。
 ここに来て何日たっただろう。ゆっくりと流れる時の中でそう考える。帰還を終えた者達が抜け、隠れ里は一層広くフェアの目に映った。
 彼の願いが叶ったら、彼はどうなってしまうのだろうねと、フェアはありえない一例に小さく噴出し、平原の一部分に腰掛ける。
 地平線が遠くに伸びていて、その途中で小さな、本当に小さな何かがあって、

「あ、れ」

 前のめりになりながらもフェアは眼を凝らす。視力は悪い方ではなかったけれども、その何かが遠すぎてその形を把握できない。けれど胸騒ぎがした。何か、その何かが何なのだろう。

「ムイー」

 お姉ちゃんの友人が、来訪してきた。
 遠くから発せられる声にフェアは眼を丸くした。いつからこの世界に来たのだろうか、近くに寄ってくる短い肢体には泥がついていて、それを掃うことなく、オヤカタと名づけられた小さな友人はフェアの前に現れた。
 戦ぐ風に眼を細め、下ろした髪が攫われる。フェアは開け放った口から小さく声を零した。

「オヤカタ…」

 ムイムイと手を振る仕草を何回か繰り返す彼の言葉を、フェアは理解できない。ただなんとなく察せられることがあるだけで、困惑顔を浮かべ「帰らないよ」と告げる。

「ムイッ、ムイー!」

 それでもパタパタと手を振りおもむろに帽子を取り中に手を突っ込んだ。彼はその帽子をとても気に入っていたのでフェアは少しでも外したところを見たことはなく、少しぎょっとした。
 お構い無しに何か手探りで模索する姿を、何も出来ないフェアはじっと見つめ、やがて取り出された紙切れを嬉しそうにフェアへ押し付けた。「わたしに?」と聞くと当たり前じゃないかというように頭を縦に振る。

「お姉ちゃん…?」

 四つ折にされた紙切れの表裏をじっくり見て、かすかに薄れたミントの名前を見て取れた。今にも破いてしまいそうな紙を恐る恐る開いて、几帳面な字面で書かれた文字に眼を通す。

「ムイー?」
「うん、うん。わかった。お姉ちゃんの言いたいこと、よく分かったよ」

 頬を伝うものには気づかないふりをする。だってわたしは見えていない、見ているのは、小さくても頼りになる、素敵な友人だけ。だから知らない、溢れ出てくる感情だけ、わたしは知っている。

「最初にね、知ってたんだ。あの人の願いが叶わないのは」

 オヤカタと眼を合わせるのは恥ずかしかったので空を仰ぐ。それは青く澄み切っていて、どんなに手を伸ばしたって届きそうにはなかった。それほど奥行きがあって、フェアがいた世界とはまた違った空だった。

「だからいっしょにいられるの、ずっとずっと」

 泉の前ではっきりと聞こえた声を今でも覚えていた。彼を心配し彼のために戦い護り、そして散った、勇敢なる父親の声。きっとあの中には角が含まれているのだろう、とても暖かで包み込むような光だった。

「わたしは幸せだよ。だから帰らない。それに帰れない。お姉ちゃんに、そう伝えて。お願い、ありがとうオヤカタ」

 皆がちゃんと生きている事だけを願って、遠き世界の片隅からやって来た友人の頭を撫でた。





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[2012/08/25 - 再録]