権力を振り回して人を意のままに操ることは少なくともジェイドにとっては一つの禁忌に等しいもので、その乱用者をこの冷酷な男はいつも虫けらを見る目そのままでほんの少しの視線を送ってやる程度の人間と、酷く慈愛的なお情けで頭の隅に置いているだけの存在である。ということはそのお情けさえもなくなってしまったらその人間の存在を全否定するということであって、一歩間違えれば実際にそうなっていたかもしれない、かなり身近に迫っていた未来の心だった。その心をねじ伏せったのが事もあろうか会った当初はちょうどジェイドの論外部分に入る人間であり、間違っても近くにおいておきたくない人種そのものだったはずの赤毛の青年で。その先入観のある彼の一線を不可抗力とはいえ踏み倒し、その曲がったなかなか直せないこと請け合いの性格を見事なまでに真直ぐ伸ばしてみせたのもジェイドが知る限りあの青年だけだった。
 そして今、権力を使うことを厭わなくしているのも権力を使わずにこの状況を打破する時間がないのもこうして必死こいて道筋を創っているのも、全て全部彼のためだというのだから世の中なにが起こるかわからない。
 分からないからこそ、還ってきなさい。
 膨大な力を見知りすぎた寛容な幼馴染から借りて、更に自分のものまで有効活用して、すでに言われ慣れた嫌味を受け流しつつ屈辱自体を一緒くたに切り捨てて一つの国立研究所を授かった。もう使い古された中古といえどそれなりに清掃が行き届いていて、幼馴染の部屋よりよっぽど綺麗だ。中の設備は後々変えていけばいい。そうする時間本当は惜しいと感じている。焦れているといった方が正しいのかもしれない。
 国を巻き込んだ大掛かりな我が侭。小さな小さな一つの命のためだけにジェイドが食いついた、自分自身で作り出した仮説。ただでさえ少ない中の更に両手で数えられるほどの友人とジェイド自身によって願われた一つの淡い未来像。
 一般研究員はもちろん上位の者でも入室の許可を降ろしていない、ほのかな明かりが闇に飲み込まれていく暗々とした個室の中心部、今はジェイドの目の前に聳えている液体に満たされた円柱の中。濁ったガラス越しに見える細い紅が宙を舞い、ごぼごぼと定期的に泡を吐き続けている「生き物」が閉じ込められている。意図的に避けていたそれをうっかり視界の中に入れてしまい、ジェイドは視線を外せなくなり少々殺気立つ。目じりを吊り上げ虚ろな瞳のあるだろう場所を憎々しげに睨んだ。
 いまだに生き物の死がなんたるかを理解しそうでしていない事をジェイドは自覚していた。時折ずきりとわずかな突き刺さりを感じるときもあったがそれでもすぐに跡形なく消えて遠い記憶に埋没し何もなかったかのように無に行き当たる。その奇跡の様な痛みでさえも本当に奇跡の様な確率でしか当たらないのだからどうしようもなかった。ただこの引っ掛かりはもっと昔には存在すらないと思っていて、それに気づかせてくれたのは間違いなく青年で、彼が成長するにつれて自分もわずかに成長したのだと苦笑するとき彼に会えてよかったとしみじみと痛感する。
 時間がない。青年がほんのわずかに微笑みながら見送る前から承知していたから、こんなに不安定な端を命綱無しの我ながら無謀な渡り方をしているのだと自負している。さあ、路は一つだけ、たった一つだけ用意している。まだ帰ってくる気力とその全てを乗り越えてきた強運がまだその生まれたての手に握られているのなら、この糸を掴み取りなさい。
ごぼりと吐き出された気泡が一際大きく漏れ出たのを境に、ジェイドは視線を無理やり背け踵を返した。





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[2012/08/25 - 再録]