「ジェイド」

 聞き覚えのありすぎる特徴的というか間延びした頭のよくなさそうな呼び方にジェイドは露骨に眉を寄せた。せっかく陰湿な空気が漂っている研究所から抜け出して晴れ晴れとした天気とほんのりと涼しい柔らかな風にあたろうと思って来たのに全てが台無しだ。

「その曲がった顔、美しくありませんよ」
「どこかの誰かさんがやって来なかったら、さぞ機嫌の良い表情を浮かべてたでしょうねえ」

 かつての下僕でありかつての馬鹿面の敵であり、間違ってもちょっと知っている人の域をでない泣き虫陰険小僧が嫌味を飛ばす。多分それは本当のことなのだろうがこの頃気が立ち過ぎているジェイドにとっては、ただのうざい蚊が飛んでいるような気分にしかならなかった。どちらにしたって気分のよいものではないのだから、気分が優れていたってまったくもって同じ切り返しだったろう。
 今更なことだが、やっぱり牢屋にぶち込んだまま放置にすればよかったとジェイドはむしょうに後悔した。研究に必要なときだけ泣き虫ディストを引っ張り出せばよかったのにわざわざご丁寧に釈放までして。しまった、奇跡的に親切すぎた。

「ほら、引き戻ろうとしない。連絡があるだけですよ」

 目ざとく研究所の内部に向けかけたジェイドの足を見咎め「やれやれいいんですか? ピオニーからですよ」とディストは嘆息しつつ肩まで両手を上げて首を軽く振ってみせる。その動作が妙にいらつく。癖のある動きと気味の悪い口調からだと思うが。

「陛下から? 何の用ですか。遣いなら貴方がやりなさい」
「俺の部屋に来い、だそうです。ですから私は無理ですね、ジェイドが直々に行くのですよ」

 さらりと用事を押し付けようとしたが、そこまで上手く事は運ばないらしくディストはふふんと鼻を鳴らした。そのすぐ後に、まるで高価な物を手に抱えた泥棒のようなすばやい逃げ足で言い逃げしつつ、ディストは巨大な椅子を飛ばして研究所の中に飛び込んでいった。何人か轢いたらしく悲鳴と怒声と殴る蹴る音が中からこだまして聞こえる。本当にここは国が誇る最大級と名高い研究所なのだろうかとその品格を確実に下げている一人のジェイドは傍観した。のうのうと鼻たれに続いて後始末する必要はどこにもないし、何よりあのピオニーが呼んでいるらしい。ここぞというときにこういう言い訳をばっちり使いきり、ジェイドは全て丸々見ていなかったことにして、それほど遠くもない王宮へ歩を進めた。




「陛下、私ですが?」
「おう、入れ入れ」

 ピオニーなら絶対にしない行動の一つである、入る前に入室許可を確認する声をかけると恐ろしく気さくな声が扉越しに返ってきた。ぶうぶうと家畜が言い合いをしている中に入るのも、それに戯れている人間と多分真面目な部類に入る話をするのはなんとなくというか確実に憚られていたがピオニーはここでただの雑談か命を下す気らしい。基本的におちゃらけているがそうと決めたら頑なに動かない所もある。今回はきっとただ単に面倒くさいからという理由で動かないだろう。ジェイドにとってはとてつもなく嫌な理由であったが。

「失礼します」

 扉を開くとぶわっと家畜独特の臭いと篭った空気が流れ出てなんともいえない嫌な感覚に襲われたが、悲しいことにジェイドはだいぶ慣れ親しんでいるものだったのでそれほど多大な感想はもたなかった。唯一つだけ、一国の王の私室がこれでよいのだろうかと思っただけで。

「ここで話すのですか」
「当たり前だろ、こいつら頭いいから邪魔しないし」

 ブウサギの頭を撫でながらピオニーはあっけらかんと言い放った。いつものようにいつもらしく王族を思わせないさっぱり具合が民の心を惹きつけているのを本人は知っているのか分からないがおそらく知ってはいるのだろう。そしてそのあっけらかんとした態度にジェイドが頭を痛めていることもそれに救われていることも。

「で、用件は」
「世間話する気がないんだな」
「あいにくそこまで暇人ではないので。最も陛下の方がそんなおちゃらけた事をしている時間などないはずですが」

 苦笑に嫌味を返しジェイドは外部の新鮮な空気になごりおしみながら扉を閉め、その扉を塞ぐように背を預けた。腕を組みつつため息混じりにピオニーを見やる。

「まあ、俺も暇じゃないけどな。セントビナーに行け。復興の指揮を任せる」
「……ふざけているのですか?」

 訳の分からない事を言い出した幼馴染に軽く眼を飛ばす。暇ではないといったばかりのはずなのだが。

「セントビナーに復興作業が偏ってませんか? ダアトもキムラスカも人材派遣をしていますし、他にも人手が必要な街があるでしょう。第一、そういう仕事は私よりもガイのほうが適任ですが」
「ジェイドがいくんだ。……もうやることはやっただろう。根を詰めすぎだ、すこしは国のことも考えろ」

 むやみに権力を振り回す人間など屑以下だ。ずっと心の中で叫び続けた言葉が脳裏によぎる。今目の前でブウサギの鼻をおさえて遊んでいるように見える王は権力に手をつけているわけではないのに、雪国での幼馴染に気を遣っているだけなのに、ジェイドにはただの暴君にしか見えなかった。ピオニーの後ろにある見えない威厳が一瞬一瞬権力に姿を変えているように感じられて。

「近いうちに、発ちます。それでいいのでしょう」
「ああ」

 それ以上何も言わずジェイドは乱暴に扉を叩きつけそのまま閉めることもわずらわしく放っとく。ずかずかと機嫌の悪く足音を響かせる礼儀を忘れたネクロマンサーに声をかける勇敢者もあえて近づいて嫌みを投げつける愚者も幸いこの宮殿には一人もおらず、これ以上ジェイドのきりきりした感情に油を注ぐことはなかった。
 それでももやもやした気持ちはなくなることなくへばりついていて、ジェイドは近くにあった罪のない壁を思い切り殴る。痛み分けのように当然のごとく手からじいんと痛みが走って、なんとなく、やるせなさの残る頭で自分らしくない事をひたすらに感じた。
 もしこんなことだけで彼らの痛みを減らせるのなら、いくらでもその痛みを貰ってやるのに。仲間たちを引っ張るのは自分の役目ではない。なら少しでもその負担を貰って全部消し炭にすることができたら。
 負担を作っていたかもしれないのは自分なのだと今までのふざけた行いを呪いながら、ジェイドはもう一度大きく壁の揺らぐ音を響かせた。





/ /




[2012/08/25 - 再録]