何がなんだか分からない。
 それがアッシュのこの状況に関しての最初に感じた感想だった。

「これは……?」
「俺が知るか」

 何も存在しない無のような色の分からない白か黒。永い時を経て辿りついた無限に広がるその空間に意思だけでほわほわ浮いている奇妙な感覚はまるで夢のようで、もしかしたらもうここは死後の世界のような非現実の場所なんじゃないかとアッシュは思った。その発想自体現実離れしているものだが答えを出そうにも一体どうなっているのかなどさっぱりであったし、何よりともに浮かんでいるのが自分のレプリカだけというのもあって仮に知恵を貸してもらったとしても良い意見が飛び出てくることなどありえない。ならこのまま知らないまま通していくのかといわれれば、それはアッシュのプライドに反する。そんな中捻って捻って考え出した答えは。

「コンタミネーション現象……」

 必死になってとっつかまえたり研究に精を出しているところをほんの少しお邪魔をしたりとあまり良い交流はしていない老人の顔を思い浮かべながら、こんなことなら詳細を問いただすべきだったとアッシュは唸った。唸るための口はなくともその声は声として謀らずとも直接ルークの元へ届くらしく、自分と同じ顔をしたルークは小首を傾げ単語を復唱する。

「こんたみ…なんだそれ」

 全てを覚えきることはできなかったらしくまた首を捻ってルークは説明を求めた。説明を受けたいのはこっちだとアッシュは悪態をつき疑問には答えずその単語の意味を考える。
 コンタミネーション。意味の似た二つの語や句が部分的にまざり合い新たな語や句と作り出すこと、だったと思う。小さい頃の知識であったが結構な比率で信用できる範囲だ。つまり二つの物が一つになる。ということは……

「一つにまとまる準備、か」

 それならなんとなく納得できるような気がした。メガネをかけた軍人の台詞も研究員だったらしい六神将の病弱そうな男の皮肉な笑みもあの老人の悲しそうな瞳も。

「何なんだよ、何か分かったのか?」
「少しは自分で考えろ」

 ぶうと膨れながらルークは投げやりに足を投げ(それは本当にあるのかと疑いたくなるほど透けて、けれどその存在は確かにそこにあると囁かれているようなあり方をしていた)癖なのか頭を掻きはじめた。ちゃんと掻けている様に見えるがその実、頭の部分に指が突き刺さっている。

「なあ、……ルーク?」

 ルークがルークと呟きアッシュは一瞬ひるんだが数刻後には怪訝な顔を見せ「頭がおかしくなったのか」とルークの頭をどついた。手に当たる感触などとっくの昔に取り払われていたが、なんとなく知識的に当たったと思い込み、ルークはそれを心に受け止める準備などしていなかったらしく、そのまま後ろにひっくり返る。

「っにすんだよ」
「こっちの台詞だ。で、本当に脳みそが腐りきったか?」
「そんなわけないだろ。ただ名前を返したほうがいいと思って」

 アッシュは思い切り何言ってんだこいつはやっぱり頭ん中はもう花畑になってるんじゃないかと言いたげな顔でルークを見た。とてつもなく失礼なことだがそれよりもルークの奇想天外な話の持ち替えの方がよっぽどおかしかったので気にする義理もない。

「だから、ルークはお前だろ。なら俺はそれを返して、」
「そんな垢まみれの名前貰って嬉しいと思うか?」
「失礼だぞそれ」
「事実だ。それにお前は還る気なのだろう」
「……」

 ルークは一度瞳を揺らしたがすぐに強い光の色を灯し「ああ」と短く答えた。それに珍しくアッシュは好感を覚え満足そうに頷く。もしかしたら初めて素直にルークを認められたのかもしれない。

「ならそれはもうお前の名前だ。俺の中のルークはエルドラントで死んだ。今の俺の名前はアッシュ。それだけだろうが」

 一度だけ捨てた名前を呟いたのはきっとあそこで自分の「ルーク」との決別だったのだろうとアッシュは思っていた。昔々の自分との一生の別れ。これで本当に昔の貴族を全うしていたルークはいなくなったわけだ。

「そっか」

 緊張の糸が解け切ったように朗らかにルークは笑った。ゆっくりゆっくりとその暖かな笑みが景色に被り――

「……え?」

 自分の体がほろほろと淡い光を放ち崩れ落ちていくのを見て、ルークはわけが分からないといった声をあげた。その喉から震わされた声も小さな小さな灯火としてふわふわ浮かぶ。それが徐々に徐々にアッシュの体に入り込もうとしているのに気づいたのは色のないルークの影だけが残って、腕を中途半端に上げたままの格好で動かなくなったときだった。

「おいっ」

 その不気味な優しい光を撥ね退けてルークの肩を掴もうとした。だがなぜかルークがだいぶ遠い所まで勝手に移動していて近づけず、そうこうしているうちに光が何もかもを無視してアッシュの体の中に入り込んでいく。

――ティアが待ってる。

 ずぶずぶと入り込んだ光に呆然としていると頭に直接響く声があった。それは間違いなく自分ではなくルークの声で、期待を抱いて前を見たが黒い陰しか残っておらずその思いはあっさりと粉砕された。

――還らないと。皆の元に、ティアの元に。

 死んで何もかもを託したはずの相手が自分よりも消え入りそうなことにアッシュは愕然とした。何かがおかしい。あの研究員に聞いた話からだと、飲み込まれるのは俺の方じゃ――?
 なんで。どちらも生きる事を望んでる、大切な人が待っている。なのになんで、片方しか還れない。
 そんな事を思っていると、今度は膨大な情報が流れ入って一つの物語のようなものが滲んできた。狭い視界の中から必死に見える物を見ている瞳に映るものは見知った邸宅や母上や父上やナタリア、ガイ――
 自分の物ではない記憶だとアッシュは直感で感じた。こんな複雑な彼ら彼女たちの瞳など、見たことがない。アッシュは頭を出来る限り大きく振った。こんなのいらない、これはあいつの記憶であいつの物だ。あいつの、ルークだけのもの。俺じゃない、いらない。
 けれどいくら振ってもこびり付くように脳に這い蹲るそれは取れる事を知らず、べたりべたりと着実にアッシュの脳に張り付いていく。
 どちらも。どちらも生きていて欲しいのです。
 ふわふわとした柔らかな金髪を揺らしながらそう願ったいとおしい少女の顔が浮かぶ。声も表情も何もかもが鮮明に。それが全て自分に向けられているもので確かに自分自身の記憶だと感じアッシュはほんの少しほっとした。
 両方生きていなくては意味がない。あいつのお情けで生かされるなどまっぴらだ。少々落ち着いた心でそう叫んでみるも固まったままのルークだったものは動かずただ空虚な瞳をこちらに向けていた。悲しそうにも寂しそうにも見せずに呆然とした瞳。

――ティア

 そう、その女が待っているのだろう、諦めるな。
 最後のひとかけらの光をアッシュはなし崩しに振り払う。入ってくるな、あいつの元へ戻れ。そう罵声を飛ばしてルークを指さした時、なぜだかアッシュにはルークが微笑んだように見えた。その瞬間へばりついていたものが取れたような気がしたがそれでも強く一人の女を大切に大切に包み込むように呼ぶ声は止まらない。その声もなくしてしまおうとアッシュは一種の恐慌状態になりながら頭を振った。手を頭に乗せようとしたとき、アッシュは訳が分からないと眼を見開く。今までと違う、ちゃんと触れている感覚。驚きつつもその触れた手を見、その指の隙間から垣間見えた世界にまた驚愕した。
 綺麗なまん丸の光を放つ、空に浮かぶ物体と壮麗な蒼の狭間ごしに見える巨大な穴の開いた大都市。ここはあそこは、見たことのある。見慣れすぎた、俺の。
 アッシュは全てに呆然として久しぶりに己の足で立っている感をひしひしと感じつつ、しばらくそこに立ちすくんでいた。

――ティア

 頭の中でまた一度、少女の名を呟く声が響いた。





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[2012/08/25 - 再録]