恐いくらい緩やかな時の中で私たちは生きています。あなたは、どうですか?




「ナタリアー、こっち終わったよお」

 ぶんぶんと元気な子どもみたいにアニスは腕ごと振り回して、歩き通る人々を挟んで数メートル離れてたふわふわの綺麗な金髪の姫に大声に乗せて終了の合図をする。最初は小さく苦笑するだけだったナタリアもこの頃はにこにこ笑みを絶やさずに振り返してくれるようになった。それはとても大きな前進で、少しでも様々な鬱々とした出来事から気をまぎらせていられているのならアニスにとっても大変嬉しいことだ。こちらの多少な無理がそれだけで報われているのにアニスは大きな心の動きを感じる。昔なら金欲が満たされない限り、心が緩やかにはならなかった。

「こちらもですわ」

 今もそうだけど我ながらがめつかったんだなあと遠い自分を他人のように感じていると、ゆっくりと人々の間をすり抜け人の群れから数歩離れたアニスの佇んでいた地点までナタリアが辿り着いていた。それからナタリアは終了の意を示し二人してほっと息をつく。今日の復興作業が無事に幕を閉じ、同時に一日の終わりが近づいている証拠だった。長いような短いような日々の繰り返しの内、張った背がようやく丸まる瞬間でもある。

「そろそろセントビナーも復興完了って感じ?」
「ええ。ですが、もう少し町の強度を上げたいですわね。地面にひび割れがありますし、あちらなんかまだ手がついていませんわ」

 軽い物言いをわざわざ作ってアニスはかたかたと笑い、それに対してナタリアは足を軽く上げて心配そうに足元を見やる。アニスもつられて地に横目を投げ想定された結果が瞳に映りわずかに眉を寄せた。小さくこまごまとした割れ目がところどころにばら撒かれており、大きな損傷ではないもののやはり気になるもので、連結されて悪化するとたまったものではない。その後二人が同時にため息をつき花の庭園の方向に広がる大きなひずみを眺める。だいぶ深い穴のようで、もう崖同然の暗い闇だった。まるで人間の暗い心の底を見ているような、よどんだ空洞。

「……だいじょうぶだよお。もう、ナタリアったら心配しょー」

 それでもそんな同意の言を呟いたらまた背負い込むだろうとアニスは直感に従い、苦笑されつつもあははと笑い飛ばす。これ以上辛気臭い空気に触れていたくなどないということもあったが。
 彼が初めて必死になって救った街だということもあって何かにつけて思い出す。辛い辛い、けどこの街がぼろぼろのままだったら彼はきっと哀しんで一緒に負い目を感じるのだろう。もし帰って来た時に見られたら大目玉だ。そして怒られるのはきっとアニス。冗談交じりに肩をすくめて、それから俺も手伝うと出会った頃からは考えられない言葉をその口から吐き出すのが、瞳の奥でゆるゆると鮮明に浮かぶ。きっとその後何をすればいいのか分からず固まった顔で仲間の誰かに尋ねるのだ。何をすればいいんだ、って。

「そーいえばナタリア、いつまでセントビナーにいる? 私そろそろ帰るんだけど?」

 誰も彼もが立派に成長したとはいえないが、少しずつ流れ行く時の上で変わりつつある事をなんとなく実感しつつ、それとはなんら関係のないなんとなく気になっていた話題を振ってみた。もうそろそろ潮時でありガイとの約束の日も近づいてきている。後一週間以上滞在していたら間違いなく間に合わないし今から発ってもギリギリもいい所だった。ならもっとはやくに発てばよかったのだが責任者が一区切りする前にさっさと消えてしまうとなると、勘違いの上で曲がり曲がってダアトの威信にも関わることになる。それはなるべく避けたかった。多くの命の上で出来上がった今の教会を落とすことはアニスにとっても色々な理由で好ましくない。

「ああ、そのことでちょっとお話がありますの」

 なあに、と聞くとナタリアはこれまた出会った当初の仲悪さからは考えられないくらいアニスに向かって綺麗に微笑んだ。心が澄んだ、けれど重い事態にも何度も直面した人だけが出来るような慈しみの柔らかい表情で。思わずアニスは見惚れそうになり、それからそんな事をしたらどこかの素直じゃない方の赤髪の青年に斬られるかもと冗談ぽく心中で呟いてそんな馬鹿なと自嘲した。彼は信じる以前にいなくなった、約束も交えずに。ならどうやって信じると? それを破れるのは親しかった者にしか許されない禁忌のようでアニスはとりあえずナタリアが信じていればいいと勝手に思っていた。どちらにしろ何かしらの約束を交わしているだろうし、そんな事をしなくてもいつまでも信じているだろう。だからまだ姫君は婚約に踏み込んでいないどころか時間のかかる町の復興に手をかけている。きっとそれは待っている証拠。死んだなんてことはないと、心のどこかで願っているはず。

「私もうすぐ二十一の誕生日が来ますの。ですから一緒にバチカルに来てくださいません?」
「はうあ! そうだったのお!? ごめんね、プレゼント用意できてないよっ」

 アニスのころころ変わる顔を不思議そうにナタリアは見つめながら優雅な抑揚で話し出した言葉を耳にし、アニスは眼を丸くしたと同時に一つ冷たい事実に気づいた。二十一の誕生日ということはもう成人の儀も二十のお祝いも過ぎていることであって、自分がその誕生日を知らなかったということはそれを祝いもしていないことであって。レムの月といえばレプリカ問題や復興の必要な町の視察と手順、それにダアトの体裁の建て直しなど多くのことに引っ張りまわされていた時期。だからとはいえ仲間の祝い事を知らずにのうのうと着実に自分に得の来る場に飛び急いでいたことにアニスは後悔した。思い返してみれば去年は誰の誕生日も祝ってないし自分のでさえ完全に無視していた。考えてみればアニスはかろうじて旅の間にナタリアと赤毛の青年が祝っていたガイの誕生日しか知らない。他の人はそんなことなどお構い無しにとっととその日を流していたか、そもそも旅のときに迎えていなかったかで気にも留めていなかった。なぜ一度も聞かなかったのだろうとアニスは首を傾げつつ、あの暖かな居場所の中では些細なことで、知らなくても変わるものはないのだから良かったのではないかと矛盾のありそうな答えを作った。もしくは時の流れを感じたくないという小さな抵抗。普通に生きていたら最後まで残されるのは自分の可能性が高いから。やばい、どちらかというと後者のような気がしてきた。なんて自分勝手な想いで行動していたのだろう。

「いいのです。ですがアニスたちがいない誕生日を迎えるのは少し寂しいですから、来てくださいませんか」
「そんなことでいいんならっ!!」

と即答してしまった手前もうあとには引けなくなった。けれど一度逃してしまった心からの祝いの分、今年は盛大に祝ってあげたかったのは本心。ガイには申し訳ないが少しだけ待ちぼうけを食らってもらおうとアニスは胸中で軽く謝罪した。

「大佐はどうですか?」

 ちょうど人々に紛れながら前を通り過ぎようとしたジェイドにナタリアは声を投げた。それを耳にしようやく気づいたように足を止めジェイドは呆れた顔を作って皮肉っぽくのたまう。

「来てすぐに話を振られても分からないんですがねえ」

 その口調と無駄な動きのない動作にこの人は何一つ変わっていないのではないかとアニスは疑った。この人本当に年をとっているのだろうか。

「ナタリア誕生日なんだって。だから一緒に、」
「――カーティス大佐、緊急連絡らしいですが」
 簡潔に用件を伝えようとすると、申し訳なさそうな顔でマルクト軍の兵がずいっと割り込んできた。曲げた腕にちょこんと大人しく止まった小さな鳩の足に付けられている手紙をゆっくり剥がし、ジェイドに渡す。それを普通に受け取って丁寧に紙を広げ、するすると視線が左右を往復するうちに表情がほんの少しだけ強張りすぐにジェイドは表情を消し兵に命を下した。

「なるべく早く発ちます。今すぐ準備を整えなさい」
「はっ」

 命を受けた兵は敬礼しすぐに町の門へ駆けていった。鎧のぶつかり合う音と叫び合い、騒々しい辻馬車の調子を確かめる軽い走行が遠巻きに聞こえる。

「すみません、私はグランコクマに急用が出来たので後の復興はお願いします。あの自由翻弄陛下から帰ってこいと急かされましてね」

 胡散臭い笑みととってつけた言い訳を二人に残し、さらに今までの話を本当に何も聞いていなかったらしく責任を一任して、ジェイドは身を翻して人ごみの中に消えた。一体何なのだろう。アニスは呆然と急ぎの用と言い出した軍人から見え隠れする一つの疑問を頭の中で呟いた。
 なら、なぜ一瞬だけ険しい顔をしたのですか。
 ジェイドのすぐに消える本物の表情をアニスは一種の小さな宝石のように感じた。もしかしたら隠しているのかもしれない。希望に満ちた一つの奇跡を。そしてそれは、きっと。
そうだったら何もかもが幸せになれるという都合のいい話も信じられるような気がした。その希望もアニスたちにとっては都合のいいものどころの問題ではなく、まるでやらせで出来た御伽噺に似た幸福論だったから。




「幼いときは楽しみだったんですの、誕生日」

 キムラスカ王国殿下専用の馬車に揺られ(実際の馬車より数倍乗り心地は良かった)隣に座るナタリアはぽつりとそんな事を呟いた。最低限であるほんの一部の兵だけを連れてバチカルに向かう途中で、ケセドニアまでは辻馬車、その後はプリンセスナタリア号での航海。少なくとも一週間はかかる旅路のまだまだ序盤のときだった。といってもアニスたちにとっては所詮それだけの日数であって、別に今までの旅に比べればただの散歩である。しかも安全な道をわざわざ探して通るというおまけつき。

「今は違うの?」

 当然の疑問をアニスは遠慮なく投げかけた。何も考えずに出した自分の声で数歩遅れて意味を理解した時にはもう遅く、案の定ナタリアは寂しそうに微笑んで想定した言葉をそのまま吐いた。

「少なくともルークが、アッシュがいなくなってしまった時からは痛かったですわ。私の事を覚えていないと思っていたのですもの。私の知っている大好きなルークはいなくなってしまって、もうあの頃のように祝ってもらえないのだと、幸せだった誕生日は消えてしまいましたわ」

 何もいえなかった。その痛みはアニスにとって程遠い痛みであって受け取りがたいものであるとしか思えなかったから。そういうものは何も知らない人間が下手に慰めるものではない。逆に傷口を開いて、痛みを大きく伴いながら泣きそうになるだろう。他人や大嫌いな奴には別に構わないが、せめて大切な人にはそんな事態を招きたくはなかった。

「ですが、今は二人ともここにはいないのですもの。去年は心にぽっかりと穴が開いたみたいでしたわ」

 成人の儀がありましたのに、情けないと苦笑しつつぽんぽんと胸を叩くナタリアの姿を目にして、貫通するはずもないのにアニスにはその手がナタリアの心を貫いて血飛沫をあげている様に見えた。真っ赤に染まるその色は青年達の夕日で、それはそれでナタリアは彼らに包み込まれて幸せなのだろうかと自分でも気持ち悪くなる考えを脳裏に描いた。
 そんな事をするくらいなら帰ってきて。そして彼女を両手で抱きしめてあげて。

「ありがとう、アニス。あなたは賢い方ですから助かりましたわ」
「誉めても何も出ないよお。むしろ何か貰いたい所存ですっ」

 思考を辻馬車の外から入り込んだ涼しい風で吹き飛ばし、アニスはわざと明るい声で言ってみせた。そろそろ自分の小さい手でも掬わないと、沈みきって堕ちてしまう。アニスもナタリアも。そんな事をしたらやっぱりどやされるのはアニスだ。彼がいなくなってからそんな訳の分からない責任はいつも自分に廻ってくる。ガイのように優しい人間ではないのにも関わらず。

「本当に感謝していますわ。もちろん、ついてきてくれた事にも」

 他にも色々と感謝されているらしいアニスは感謝されることに慣れきっていなく、少し困惑してから「ありがと」とにっこり微笑んだ。時にはこんな暖かな気持ちに出会うのもいいかもしれない。

「じゃあさ、私の誕生日にナタリア来てくれる?」

 四ヵ月ほど先に控えた一時忘れていた誕生日のことを期待して聞いてみる。するとナタリアはほんのりと柔らかく微笑んだ。

「アニスは大切な人と過ごすべきです。私よりも大切な人がいるでしょう」

 その人がだめだなんてないでしょうけれど、もしそうだったらわたしは喜んで飛んでいきますわ。  そのとても温かい言葉が生み出されて、去年はどれだけ辛い思いをしたのだろうとアニスは笑みを貼り付けながらなぜか泣きそうになった。なんでこんなに幸福は偏った。
 一気に気分が下がりつつも、もう一度「ありがと」と呟いてアニスはたわいない話をどこかの友人同士の会話のように無理やり繋げる。微笑むナタリアの笑顔と自分の無理に引き上げた唇に根本的な違いを感じながらも、止まることなく止めることなく辻馬車はがらがらと不可思議な音と振動をアニスたちにもたらして、予定通りの速さでケセドニアへ向かっていった。





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[2012/08/25 - 再録]