港がにわかに騒がしかった。いつものように人々の行きかう中でどこかのネジが緩んでしまったかのような微妙な違いだけれど、ナタリアの心にはそのほんの少しだからこそのずれに、相応しくない大きな不安がよぎる。

「どうしたんだろう?」

 その細かな違いをアニスも感じたらしく、二人して顔を見合わせながらもとりあえず上にいかないといけないよね、と当面の目的を思い出し天空客車へと向かう。その道のりでは何も変わらない日常の一コマが繰り広げられており、なんだか釈然としない気持ちになった。空の色も潮の香りを漂わせる空気も風も漁で獲られた生の魚の臭いも全てがこの変化を無視して当然のように異物を紛らせているような気がする。ナタリアは首をかしげ角を曲がり、見えてきた客車前でなぜか腰を抜かしている一人の兵士を認め更に首を曲げた。アニスに眼を向けると了解というように頷いて、それを確認しナタリアは兵の近くに駆け寄る。兵はこちらに気づく風もなく寸差で行ってしまったらしい客車をこわばった顔で見上げていて、中途半端に開いた口から声にならないか細い悲鳴を上げていた。

「あれ……!」

 ナタリアが兵の前に足を折った時、アニスがまるで幽霊でも見るような目つきで客車の中を指差す。ナタリアはその体勢のまま眼を凝らし遠ざかっていく客車の中を覗き同じく眼を丸くした。箱の中に入れられているのは見慣れていたはずの夕日のような炎のような暖かい紅の髪。命の強さを感じさせる一つの灯火。

「あ、ああ……!」

 なんともいえない言葉ではない言葉を発し、ナタリアは絶句する。その間にも客車は中心街への道のりを難なく進み、更に遠ざかる距離が時間の諭して表されているかのようでナタリアの心にひどく痛みの滲む傷を作った。

「ナタリア、乗って!」

 へたり込みそうになった足をナタリアが力を振り絞って立ち上がろうとしていると、アニスがしょうがないもんねと呟き、生き生きと肩にかけた人形を持ち上げた。一度大きく地にバウンドさせ上に振り上げると同時に人形がその勢いに比例して巨大化する。

「ほら、早くっ」

 身軽に人形の上に乗り込んだアニスがナタリアの手をとる。それに引かれてナタリアはようやく立ち上がることに成功し、よたよたといつかの虚ろな少年の頼りない足取りを思い出しながら、アニスに助けられつつ後ろに乗り込めた。
 近くに待ちぼうけを食らわされているらしい漁師の浮ついた制止の声を聞かない振りして、アニスはそのままトクナガをロープの上に飛ばせた。軽業のようにすとんと綱渡りの体勢で乗った後アニスは「ごー!」と客車を指差す。揺れる細い糸が切れそうになるのと同じようにぎいぎいとかしぐ音にナタリアはつばを飲み込んだ。落ちないよう慎重に渡っている所為かなかなか距離は縮まらずむしろ少しずつ離れていっている気がする。その内に激しい振動の中客車が止まり中に乗っていた赤髪の青年はなにも気づかずにそのまま歩いていくのが見えた。焦りと不安の中、アニスの腰あたりに回した腕が固まりナタリアはただ待つことしか出来なかった。いつも待つ側に置かれている自分がとても情けなく悔しく辛く、その待つ時間の中で生き埋めになっているのではないかと思う。その中でナタリアの心はそんな人を少しでもなくせるように、彼との約束を果たすために自分の弱さを昇華していたのだとなんとなく感じさせられた。結局は、自分のために?
 青年が見えなくなった数十秒後に中心街へ人形ごと降り立ち、人々のどよめきを聞きながらアニスはそのまま群れる人だかりを掻き分け飛び越した。階段を上がりきって前方を見やるとどうやら軍事施設を経由する方の客車は今しがた動き出してしまったらしく、ここの兵も壁に寄りかかりながら放心している。アニスの小さな舌打ちを耳にし、ナタリアはもう一つの空中庭園に直通する客車を指差しあちらですとアニスの耳元で呟く。アニスは二つ返事を返しそのまま捕まっててと念を押す。ナタリアはわけが分からずも一度頷き固まっていた腕をほぐしてから力を入れ直した。人形に乗ったまま客車まで物音を立てながら走り後数歩になったとき、アニスは人形を縮小させナタリアと共に半ば倒れこむ形で客車に滑り込んだ。体をしたたかに打ち付けるも外傷はなくうっと詰まった息を吐き出すだけですみナタリアは安堵する。小さな静止が耳に入ったがお構い無しにアニスが早く動けと暴言を吐きつつ客車のスイッチを押す。がこんと大きな揺れを打ち、上層へのろのろと登り始めた。
 どうか。どうか今先程見えた綺麗な夕日の色が見間違えではありませんように。
 そう願いながらナタリアはむくりと起き上がり胸の前で手を組んだ。指と指が食い込みあい、どんどん青白くなっていったが、ナタリアにはそんなことはどうでもいい事の中でも特上のどうでもいい事で、それよりもあの色がもう二度と見失わない事を心から願った。

「大丈夫、大丈夫だよナタリア」

 客車の振動とは別に手が自身で震えていたらしく、がくがくいっている。アニスはアニス自身の手でナタリアの手を包み込んで「私もちゃんと見た。だから大丈夫」と眼を閉じて優しくいってくれた。それだけでナタリアは泣きそうになるときに感じる喉のつまり感が振り払われ、小さくアニスに礼を述べた。他に言う事を考える余裕も気力もなかったがただ感謝の念だけはあったから。
 客車はゆっくりと最上階へナタリアたちを追い込み、やがて時が満ちたというようにがたんと大きな物音を立てながら止まった。その途端にナタリアは足に精一杯の力を入れ込んで立ち上がりながら飛び出した。アニスもそれに続いて来るのが、わずかに働いていた聴覚で拾った足音で理解する。
 心拍数が恐ろしいほどに上がりつつも、階段を登りきったところの城前でその上空を仰ぐ青年が佇んでいるのを、ナタリアは己の瞳で確認できた。その綺麗な綺麗な紅の色が自分の望んでいた色だと実感して一筋涙が流れる。

「お帰りなさい、アッシュ」

 確信めいた言い方といきなり駆けられた声に眼を見開きながら振り返った青年を、ナタリアは涙を拭うことも忘れ抱きつく。そこには暖かな体温があり、この人は本当にこの人なのだと当然のはずの事を心から感じた。

「お帰りなさい、お帰りなさい――」

 言葉はそれしか知らないみたいに繰り返し繰り返しナタリアは呟く。呟いた言葉は消えずにずっとナタリアの耳に、もしかすると青年の耳にも渦巻いて一つの大きな心の支えになった。





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[2012/08/25 - 再録]