あの誕生パーティの煌びやかさが数ヶ月の時を流してようやく落ち着きを取り戻してきた頃、アッシュもゆっくりと物事を語れる機会に巡り会えた。応接室として利用されることもある尊厳の溢れる装飾に怯む者は数知れないが、不思議とこの顔合わせだと慣れ入ってしまった者ばかりで一般の家庭とそう変わらない雰囲気だった。ただ一人かなりの例外的にこれ欲しいなあとおくびもせず物欲しげに言ってのけた暴者もいたが。その主のいない導師守護役もしつこく何で、どうしてとわざとらしく問いただしてくる呪縛を解かれたように、いつになく真剣な顔つきで耳を傾けている。

「それで……いえ。まずはお帰りなさい、ですね」
「ただいま帰りました、母上、父上」

 昔よりもいっそうやつれた母の顔をアッシュは神妙な顔つきで眺め、続いて父にもお辞儀をした。頭を上げきった時に見えた瞳は待ちぼうけを食わされたような疲れと優しさと寂しさの混じった複雑なもので、アッシュはこんな表情の父を見たことがなく、どんな顔をすればいいのか分からなく顔を俯ける。昔に見ていた瞳は絶対を重んじる強き力に満ちた輝きをしていて、何度も怖くて直視を逃れ、眼を反らしていた瞳だったはず。いつからこんなに年を思わせる色をし始めたのだろうと大きな年月の差を知らしめられた。

「ねえ、あんたが出てきたとき、すこおしだけ騒ぎになってた気がするけど。なんで?」

 場のしんみりしすぎた空気をいち早く察知したらしく一掃するように、アニスというらしい少女がここにそぐわない明るい声色と無礼講な言葉で疑問を投げた。周りの気のいりようを読むのに長けているのかただ辛気臭い物自体が嫌いだったのかは知らないがアッシュは小さな心遣いに感謝する。ただだいぶ時間の過ぎた話題だったのだが仕方がない。そういえばそのことも話していなかった。

「港の兵に見つかった」
「なんでまたそれだけで」

 当然それだけで何があったのかなど、この何かを含んだ驚きの顔を見せびらかすように作ったアニスには分かっているのだろうが敢えて疑問を重ねられた。つくづくナタリアの仲間はメガネの軍人を筆頭としてひねくれたものが多いと肩をすくめつつ答える。

「知るか。ただもう死んだことになっている人間がけろっとした顔で帰ってこられたら嫌でも驚くだろう。腰を抜かされて弱ったのはこっちだ」

 とかいいつつ、港から中心街の客車前にも顔の知れているキムラスカの年輩兵が巡回している事をすっかり忘れて、とりあえず船から中に入れば大丈夫だろうと浅はかな考えをした自分にアッシュは胸中舌打ちした。間抜けな所をあのレプリカに感化されたかと責任転嫁したとき、ついもう一人の自分ではない青年が脳裏によぎる。「結局変な騒ぎ、起こしたくせにー」と小さくぼやく、きっとその原因の一端に加担している少女の声が耳に入り込んできたが、聞こえなかったふりをした。なにせ小さな小さなぼやきだったから。
 それよりももう一人の自分とは思いたくもない自分ではない一人の人間を思い出して、しばらくの間止んでいた一人の女の名を呼ぶ声がまた頭で響きアッシュは眉を寄せた。だからお前は早く帰ってこい俺に押し付けるな何度も言わせるなよ屑が。そう何回も繰り返してやっとその声が途切れアッシュはげっそりした。いつまでこれが続くのか。もう嫌がらせの域を超えている。

「すみません、ナタリア、アニスさん。ちょっと具合が悪くなってしまったみたいですから、今日はここまででいいですか」

 アッシュの変化にすぐ気づいたシュザンヌは、ファブレ公爵と目配せして二人に退室を命じた。柔らかい物腰の中に完全な威圧を込められて、いわば強制。

「そうですわね。ではどうかお体に気をつけて。いきますわよ、アニス」

 アッシュの疲れの原因を知らず知らずでありながらも上手く汲み取ってくれたナタリアがぶうたれるアニスを急かす。動こうとしないアニスにまた逢えますわよとナタリアがなだめようとすると「別に逢いに来たわけじゃないもんっ」ととても失礼な事を本人の前で吐き捨てた。その数秒後にしょうがないなあと立ち上がり、もう来ないかもしれないけど来たら歓迎してよねーと別にいらない別れの言葉をアッシュは投げられるも、返事する気がおきずそのまま流す。

「私が送ろう」

 そういってファブレ公爵がおもむろに立ち上がった。即座に慎んで遠慮する二人をいいからと応接室の扉と開き、ファブレ公爵たちはさっさと邸宅の外へ消えていった。結果、残ったのはアッシュとシュザンヌだけであり、少しの沈黙を躊躇いがちに流す羽目になる。長い親子の傷を縫い付けるように奇妙にかつ印象深く。

「無理しないでね、ルーク」

 ようやく傷を縫い終えて、シュザンヌが小さく微笑みながらどこかで聴いたような言葉を口にした。どこだっただろうと探そうとしたがなんとなく自分の記憶からではないような気がしたので、すぐにその件は忘れることにする。自分にあてられた言葉じゃない。それは意地でもなんでもなく、ただ一人の人間の人権というものを守るための行為だった。

「ありがとうございます。ですがその名前は私のものではありません。あいつの名前です」

 礼をいいつつもアッシュはゆるゆると首を振る。その名前で呼ばれたらまたどこかの誰かの記憶が疼く。それを避けるためにも、あいつの居場所を残しておくためにも、どうか自分の名を知らしめておきたかった。

「ですが――」
「諦めない、諦めるの問題ではないと思うのです。その名前は奴の名前。それだけですよ」

 不安そうに顔をゆがめるシュザンヌにアッシュは更に言い募った。引いてはいけない。例え母であろうとも自分の意思は簡単に曲げるものではないのだとアッシュは自分に言い聞かせた。

「私は元々ルークでありましたが、それでも今はアッシュなのです。奪われたからといって奪い返しなどしません。そもそも私はやつに名前を渡してきたのです。それを今更取り返すなど大人気ないではありませんか」

 苦笑しつつアッシュは軽い調子で締めた。さすがに真剣面で言うと彼らの知る昔のルークと重なって螺旋が続いてしまう。閉ざすために行動しているのだから必然的にそうしなければならなかった。こんな誰かを巧みに自分の望んだ流れに引っ張るのはかなりの昔以来で、なんだかそれが自分にルークの部分が残っているみたいでアッシュにしては複雑だった。結局抜け切れてはいないではないか。

「いい兄になりますね――アッシュ」

 少し驚いたように口を開き、その後小さく笑いながらシュザンヌはようやく吹っ切れてくれたらしく灰の名を呼んだ。アッシュとしては前の言葉がかなり気がかりでつい「ご冗談を」と肩をすくめる。だけれど、認めにくいけれどそれでもいいと思えた。あの小さく小さく最後に見せられた微笑は、きっとルークが自分の意思でしたものだと本心がいっている。だからルークはまだルークとして残っていると思いたい。そして自分よりも短い生をそんな中途半端なところで止めて欲しくはなかった。まるで自分がルークを生贄にして還って来たようで決まりが悪いという思いも多少はあったが、ただルークに力を貸してくれた全ての人たちのために、ファブレ家の者としてきっちりと恩を返すことをさせたい。貰い逃げなど論外だ。
 自分の力でちゃんとこの家に帰って来い。手助けは、しないからな。
 そう頭に残る記憶の中のルークにとりあえず伝える。返事など期待はしなかったがただ呼応するように女の名を一度呟くのを感じた。

「ところで、一つ頼みごとがあるのですが」
「なんでしょう」

 やつれが緩和されたような気がする顔を緩めて、シュザンヌはちょっと待っていてとアッシュを応接室にとどめて私室の方の扉から一人退室した。なんなのだろうと特に何も考えずに待っていると、数分でシュザンヌは息を荒げない程度のゆっくりとした足取りで扉から姿を現す。

「これを……」

 そういって手に携えていた幾つかの封筒をアッシュに手渡し、手渡されたアッシュは首を傾げた。




――なんでアッシュだと分かったの?

 そんな当然浮き出るだろう疑問を口にすると、ナタリアは必ず「どうしてでしょう」と曖昧に笑い返すだけだった。その問いを今繰り返して聞いてみたが、やはり返答は変わらずナタリアは困惑した笑みを見せるだけ。正直アニスにはあの時どちらかだなんて全然分からなかったし、もしアッシュじゃなかったらどうするつもりだったのだろうと少し冷や冷やしていたというのに。何か確信めいたものでもあったのだろうか。アニスには気づけない小さな何かが。

「――ナタリア」

 そんな事を考え込んでいると、隣を歩く綺麗な女の人の名前が呼ばれる。その声は先程仮病で強制的に退室させた張本人の声で、自分自身で意味のない行動にしてしまうとはやはりボケ担当なのだろうとアニスは自己完結しつつ隣を仰ぐと、少しだけ肩を上下に揺らしてから顔をほころばせるナタリアの顔がありありと見えた。それは遠い旅路の末にやっと手に入れた心からの幸せを充分にかみ締めている姿。良かったね、ナタリア。アニスは自分もなんだか嬉しくなり心の中でだけ祝福の言葉を添えナタリアの後に続いて振り返った。

「どうした」

 振り向きつつナタリアを挟んだ隣を歩いていたファブレ公爵が早速尋ねる。威厳の中に不器用な優しさが覗き込んでいて、本当は暖かな人なのだとアニスはすぐに理解した。なんといってもレプリカだと知った時でもちゃんと息子だと、二人とも大切な家族だと言ってのけた人だから。突っぱねないその寛容な心がこの二人の人格を作ったのだと思うと微妙な気分だったが、アニスはこんな父親でも良かったなと穏やかな気持ちで考えた。それでもやっぱり自分のお父さんが一番だけれど。

「母上から使いを頼まれました。ユリアシティの少女やグランコクマの軍人、他にも数名に手紙を渡しに、と」
「ティアに?」
「ああ」

 素っ頓狂な声をあげアニスは首を傾げた。なんでなのだろう、わざわざティアに手渡しで届ける必要のある手紙――?

「どういう旨のですか?」

 ナタリアがすかさず首を突っ込みアッシュの前に出ながら尋ねる。その純粋な姫の瞳を見てアッシュは一瞬たじろいだ。

「――俺たちの成人の儀の招待状だ」
「あ……」

 言っていいものなのかと考え込む顔を見せ、結局躊躇いがちにアッシュが告げた言葉にアニスは小さく息と一緒に声を漏らした。そういえばバチカルに帰国する途中で、ナタリアから気まぐれにルークの誕生日を聞き出してそんなくだりをなんとなく考えてすぐ記憶の淵に捨てた気がする。すっかり忘れていた、というより忘れていたかった。思い出す度にいまだに慣れない鈍い痛みが心の奥底に迸る。今回も大きく心が波打ちずきりと確信的に突き刺さった。

「だから、俺はいいとしてルークの友人を呼ぶのだと。だからお前も」
「私?」

 落ちていく自分の気持ちを精一杯保ってアニスは自分を指差し高い声で反応した。それを面倒くさそうな顔でアッシュは相槌を打って、一通の招待の旨が書かれた紙を内封しているらしい封筒をアニスに投げる。招待状は思ったより風に流されてそのままどこか遠くの海まで飛ばされそうになり、アニスは慌てて手を伸ばしすんでのところで捕らえた。なんなんだあのボケナスはとアニスは声を張り上げようとしたが、本人も少し驚いているようで悪気はなかったらしい事を察しアニスはそのまま黙りこむ。アッシュは数秒後にはっとし一度堰をして場を取り直した。

「そう、ナタリアはいいんだがお前やガイ、あのメガネにも」
「じゃあ、ガイの分も持っていくよ。ダアトで会う約束になっているから」

 ずいぶん前にだけど、とアニスは心中でだけ付け加えた。もう何ヶ月もここに滞在している。いくらなんでも遅れすぎだろうと心のどこかに潜む良心が自分に呆れた。まだいるかなんてわからないがもしいなくても自分がグランコクマに出向けばいい。というかきっとダアトにいてくれる。そう信じられるのはあの仲間達の足りない良心をかき集めた人が彼だから。

「私もついていってよろしいですか?」
「もちろん」

 身を乗り出しながら問うナタリアにアッシュはアニスにもう一通渡しながら即答した。それがかなりアッシュらしくてアニスは噴出しそうになったが何とかおさえる。だめだ、笑ったら確実に斬られる。

「では、今すぐ旅支度を整えてまいりますわ」
「私はもういくね。せっかくだから一回セントビナーに寄って復興作業について聞いてくる」

 アッシュとの久しぶりの旅にナタリアはにこにこと綺麗に笑った。それは一国の姫である前に、一人の女性で好きな人と一緒にいられる事をただ素直に喜んでいる素敵な表情だった。その生意気な姫気取りをしないところもナタリアの魅力のひとつで、アッシュはそんな所にも救われていたのではないかと思う。そう、飽き飽きした見栄張りの貴族の中で、数少ない気取る理由を求めない居心地のいい大好きな女の子の隣という場所に。

「ごきげんよう」
「そっちもねっ」

 アニスは二人と手を振って別れた。ナタリアはゆるゆると返してくれたが公爵はただこちらを見ているだけで、アッシュにいたっては早く行けといわんばかりの眼つきで睨んでいた。自分も結構失礼な態度を取っているが彼もそれなりに失礼ではないだろうかと苦笑する。
 最上階から改めてみる空は透明なくらい澄んでいて、とても近い場所にあるものだと錯覚した。もしかしたら手を伸ばせば彼を掴めるかもしれないと手を思い切り天に伸ばしたけれど、結果はわかりきっていたものですぐに手を下ろす。でも、でもせめて今いる人はいなくならないように。自己中な考え方と充分承知しながら、もう伸ばした手から大切なものがすり抜けて消えていかないことをただただ願った。




「父上は、聞かないのですか?」

 アニスが客車に乗って下層に降り、ナタリアが手早く準備を済ますことを願っている間、アッシュは公爵とそのまま空中庭園で待つことになり、なんとなく気にかかっていた事を問うてみた。自分がどうやって帰ってきたのか、もう一人の息子はどこへいるのか。聞きたいと願うことは山ほどあるはずなのに今まで一つも尋ねられていなかった。

「言いたいときに言えばいい。帰ってきてくれただけで私たちは救われた」
「ありがとうございます」

 救われたのは多分どちらもだとアッシュは決して口にはしなかった。しなくても分かっているだろうし、してもきっと苦笑が返って何のことやらととぼけられて終わりだ。だが確かにアッシュは今この場所に帰ってきて救われた。なくなったと思っていた場所がまだ残っていたことを皆が皆教えてくれて。二つの命を共に認めてくれていて。

「さあ、旅立つのだろう、準備は」
「出来ております」

 淡々とした会話は捨て去ったはずの遠い昔を思い出させた。それは間違いなく自分の記憶でアッシュはそのことにほっと息をつく。良かった。あいつのではなく自分と父との記憶が残っていて。
 安堵した途端になんとなく、自分は自分でいいのだと先程故意に見落とそうとした論を今更訂正した。無理して昔を切り捨てずに大事に大事に取っておいてもアッシュはアッシュでしかなく一人の人間なのだから。それがルークという存在を否定しているわけではないと、昔の父と今の父を重ねながらそう思った。ほら、少し変わったように見えても父上は父上だ。他でもない、自分達の。

「帰ってくるのだぞ、それなら私は、私たちは何も言わん」

 その言葉一つでアッシュの心はだいぶ荷が下りて「はい」と一つ返事を返した。
 指切りはしないしする気もさらさらなかったけれど、それでもしっかりと心が繋がったような気がする。幼い日のすれ違いが、十年近くの狭間の向こうから。





/ /




[2012/08/25 - 再録]