小さなときに綺麗だとはしゃぎまわって兄になだめられた花畑も、今は何も感じなかった。風も太陽の光にもあたることなく最近ではそれがなんだったのかさえ分からなくなる始末で、その中心に佇む仮の墓も魂を入れ込むもののはずなのに生気をまったく思わせず、むしろ吸い込んで喰らい尽くしている石のようにしかティアの瞳には映らない。いつ墓の掃除をしたのだろうとおぼろげな意識の中首をひねったが、恐らく一年以上は放置されたままだと曖昧な結論しか実を成らせなかった。むしろあの空間に立ち入ることもすでになく、花は週に何度かの厚意によって降り注がれるスプリンクラーの水を頼りにかろうじてその命を引き伸ばしているだけ。枯れ果てそうになっても必死に生きている、生かされている。それがまるであの頃の彼のようで、あの頃という単語を一発で出してしまった自分にティアは嫌気がさした。
 必要最低限の事務を「何もやらないよりかはずっといいですよ、国のためにも、もちろん貴女のためにも」と祖父から定期に貰いうけ、淡々とこなす日々がもうしばらく続いていた。くっつき虫のように部屋から離れることなく食事もまるで牢獄を連想する気分で手渡されている。それは疑いようのない好意とティアに対する心配によってなされた、堕落した生活を送っているいたいけな少女の世話だったが、ティアにとってはただの抑揚のない生活の一欠片だった。
 その無駄に多い事務関係の書類の上にインクが程々についたペンを走らせ、かろうじて残っていた理性の上で今回の定期分の仕事という名の心を繋ぎとめる作業をようやく終えたティアは、ペンを跳ね除けてベッドに力なく横たわった。
 軽い衝撃音を奏でた仕事道具を拾う気もおきず、じりじりと比較的綺麗だった絨毯を侵食する黒を、根本的に離れた世界を無感情で見るようにただ眺める。このように彼の心は蝕まれていたのだろうか。彼の心だけではなく体も命も音素さえも全て黒い何かに喰われて消えていったのだろうか。そう考えたティアはすぐに自分の頭を叩きその仮説を切って捨てた。ふざけるな。ルークは帰ってくると約束したのだ。消えてしまうなどありえない。
 全てなかったことに出来ればどんなに楽なのだろうと何度も泣きそうになったことがあった。彼を出会ったことも見守ると約束したことも彼一人にだけ送る想いも全部。そう思っているからきっとあの遺言のような譜歌を歌えなくなってしまったんだ。不安定な均衡さえも折れていつもどこかが抜けきって、空っぽでもなく満たされているわけでもなくただ中途半端にとどまっている穴開いたコップの中の水のように。
 知っている。この仕事もティアがティアでいるために祖父が無理を言って教会から貰ってきた実務だということも、膨大な量の仕事をギリギリの日数でこなさせるいわば酷使の労働も余計な事を考えずに日々を送らせるためのものである事も。だからこそ訳が分からない。生きる意味がどこに転がっているのか分からないこの世界に一体何を見出せと。
 区切りのつかない疑念に頭が痛くなりベッドに散らばった長い髪を掻き分けることも寄せ集めることもせずそのまま放置しておきながらティアは視線をベッド脇の机に切り替えた。上にぽつんと乗っているのは大切に大切に布で包まれた本。今にも世界に解けていきそうだった赤い髪の青年の思い出が詰まった、いたって普通の日記帳。
 もう一年たった。その一年間、約束通り日記に手を添えることもなくそのままの形で守っていた。儚く崩れてしまいそうな本の守護を任された番人のように、自ら触れるというおこがましい行為に乗り切ることもなく。ただ問題が一つだけあって、一年約束を守りきったはいいもののその終末には読んではいけないという心がすっかり身にしみていて安易に抜けなくなっているという恐怖感が生まれて結局そのまま放置している現状だった。今でもその日記を手に取る事をティアは恐れている。

「――ティア、いますか?」

 コンコンと控えめなノックが無音の部屋に響き、いつものように事務の回収に来たのだろう祖父を思い浮かべて入室の許可を下ろそうとしたら、いきなり女の人の声がティアに向けられた。それは久しく耳にする機会のなかった声と同時に極力避けていたものでもあり、ティアは小さく肩を震わせる。嫌でも彼を思い出すから。至極自分勝手な理由だが自我を保つためのひとつの方法なのだからティアにはどうしようもなかった。それに他のことに気を遣う余裕も今のティアには小さな花びらほどもない。

「おい、入るぞ」

 返事をどうしようかと半ば放心状態で数秒過ごした後、問答無用の言葉を吐いた声にティアは驚愕した。忘れなどしない人にそっくりなあの人の、でもこの声はやっぱり――
 わたしにとっては、にせもの。

「ちょ、だめですわよ、女性の部屋ですのよっ?」
「関係あるか」

 乱暴に扉が開かれ現れた申し訳なさそうに困惑するナタリアに堂々と歩み寄ってくる赤髪の青年に呆然として、ティアは反応を返せなかった。願った青年に似すぎていてそれでも全てにおいてどこかずれている青年に瞳が引き寄せられて離れない。

「ったく、後生大事にとっておくつもりかよ、お前は」

 きょろきょろと無遠慮に部屋を眺め回した後に一人寂しく孤立されている日記に視線を送ると青年はさも嫌そうに口の端を歪める。いきなりそういわれたってティアは反応に困るだけで結局先程のように何も返せなかった。

「読めって言ってたんだろ、あいつは」
「……一年待てって言っていたわ」
「もう経っただろ」

 苦渋の返答にすぐ壁を作られティアはぐっと言葉に詰まった。確かにもう過ぎている。
 おろおろとナタリアは口を開きかけまた閉じるを繰り返すばかりでどちらにつこうともしなかった。口を挟むこともその場から退室することも何もせず。

「布なんかかけるものじゃないだろ」

 そう愚痴りつつ青年は布を引っぺがして日記を適当に開き始めた。久々に目に映る日記の表紙に心が大きく脈打ったのを自覚して、ティアは自分の胸倉を掴む。どうか止まって、不穏な高鳴りを見せる脈も表情の仮面をつけられない顔の筋肉も自分を自分といえないよう殻に閉じ込めた私もなにもかも。

「やめてっ」
「ほら、みろ。あいつが託した日記なんだ、ちゃんと前向け」

 開いた状態で突きつけられた日記から視線を背けつつなるべく下に落としてティアは叫ぶ。赤髪の青年も日記も瞳に映せなかった。ただ怖いだけでそれ以上もそれ以下の理由はない。

「わかってる、分かってるから閉じてっ」
「ぐずぐずいうな、さっさと読んでやれ」
「いつかちゃんと読むからっ! だからもう少しだけ時間をちょうだいっ」

 自分が消えていく、保てなくなって押しつぶされて塵になっていくから。

「今自分が言ったこと、よおく覚えとけ」

 たった一文の言葉に満足したように青年は鼻を鳴らして荒く日記を絨毯に落とす。日記はばこんと素直に地面と共に空気を振動させ自分の居場所をティアに知らせた。
 ティアは俯いてベッドの上にへたれこんだ。前髪が顔にかかりその存在を知らしめていたが、できることなら彼の命を知らせて欲しかった。そんな都合のいいことなどないけれど。

「ティア、これを」

 最初にお渡しするつもりでしたのですけれど、とどこかに横目を入れながらナタリアはそっとティアに封筒を差し出した。なんだろうとナタリアを仰ぐとなぜかアッシュの方から返答があり、「成人の儀の招待状だ」という短く簡潔な言葉がティアに突きさせられた。誰が行くかと叫びそうになる。

「ごめんなさい、慌しくなって」

 一番静かに控えていたナタリアがそんなに気に病んでいるのもかなり悪いとティアは久しぶりの気遣いを思い立って「いいえ」とだけゆるゆると首を振った。一番問題を起こしていたアッシュは明後日の方向に向いていて、それ以上何も語らずに会話が切れた所を見計らって、心配顔を引っ込めないナタリアを無理やりつれて帰っていく。ほんの数分の間に色々あり過ぎてティアはもう数日の時を過ごした気分になる。それはかなり昔のように感じていた仲間たちとの旅の年月のようで、ようやくまともな時に乗れたのだとティアは不思議とそう思えた。
 ベッドの脇に布を省かれた先程よりも久々に見た気がじんわりとする表紙をティアはじいと見つめた。あの時と同じようにあの時と同じ内容の記されているはずのノート。まだ中を覗く決心はつかないけれど、いつか。そう、さっき自分が口走ったようにいつか彼の心を読むときが来ますように。

「私には――」

 私には、一体何が出来るというのだろう。
 遠い空の色合いを見るような気持ちでティアは己に問いかけた。それはもう知っているはずの答えを再確認するかのように、強く。
 私には、一体何が出来たというのだろう。
 彼が見ていた私は一体どれほどの人間であったかは分からなかったが、少なくとも今の道を見失ったティアよりはまともに自分を知っていたティアだったのだろうと納得した。
 それならまずは。
 おのずと出てきた答えにティアはひとり絨毯の上に静止した日記を優しく撫で、一つ小さく頷いた。時が来たら、必ず。





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[2012/08/25 - 再録]