「ようこそいらっしゃいました、アッシュ様、ナタリア殿下」

 そんな事をグランコクマに着いてさあ港に降り立とうと船と硬いコンクリートの隙間から見える海上をまたごうとした直前、いきなり視界の中に入り込んだ若々しい兵士に敬礼されながら囁かれ、アッシュはそのまま下ろそうとしていた足を停止させてぽかんと口を中途半端に開いた。後ろからひょこりと顔をだしたナタリアも眼を真ん丸く見開いて、まあとアッシュの耳元で囁きのように吐息と共に吐き出す。

「カーティス大佐が陛下の私室でお待ちしています。どうぞ王宮へ足をお運びください」

 特に意味のない驚きで足を動かす事を忘れていると、後ろが詰まりますので降りてくださいと降りる隔たりを作った人物に困惑顔で頼まれ、アッシュとナタリアは一度顔を見合わせて兵に従い安定した地に足を置いた。兵は港を持ち場としている同僚らしい兵士と短い言葉を交わして「こちらです」とアッシュたちを平民から見たらかなりの丁寧さで招く。貴族から見ればまた別なのだが。

「……つけられてたか?」
「いいえ、そんなことはないと思いますわ。不審な気配はありませんでした」

 招かれるままに二人して歩き出すのもそこそこにマルクト軍への疑念を巡らせる。普通に物騒な会話をしていてもせわしなく行きかう人々の耳にはなかなか入らず、傍から見れば仲の良い高位の男女が前の兵に対する評価を論じているとしか思えないくらい緊迫感は皆無で優雅な空気だった。ナタリアとアッシュがかもし出す雰囲気にも多少の要因があったのだろうが、やはりそれほど平和になってきたのだろうと考える方が自然。更にただの偽りの和やかさではそんな勘違いは引き起こされない。
 ガチャガチャと愉快な音を響かせる兵を見て、別に先導しなくたって王宮の場所くらい分かるとアッシュはつい口走りそうになった。けれど前に立ち、急ぎこちらですと適当に観光案内しているようなさまはどこか遠くの記憶がその訳を知っていると叫びだしたのでアッシュはすぐに黙り込む。多分そんなおせっかいに似た世間知らずと言われている様なものに憤慨してみせても、この兵はジェイドに命を授かりましたからといって引きはしないだろう。きっと軽く脅されたか、はたまた彼に敬意を持っているとんでもない珍兵か。びくついていない所を見ると後者かもしれない。
 特に兵と共に会話を楽しむことも兵が同席している中でナタリアと気軽に話せることもなく、ただ無口に足を動かす。王宮に近づくにつれ潮風が薄くなり春を思わせる柔らかい風に変わる。人の足音も穏やかな奏で方に変化していくのにアッシュは心地よさを覚えた。ごみごみした貴族社会より断然穏やかな波のほうが好ましい。自然と柔らかい表情になりながら落ち着いた雰囲気の中に印象深い蒼で整えられた王宮に二人はすんなりと導かれる。

「入れ」

 宮を前にしてそれでは私はこれでと早々に兵は立ち去った後、アッシュはナタリアを見やり、こくりと頷いたのを確認しいざ扉を開こうとしたその時、まるで自動ドアのように勝手に開き顔を出した長い金髪に唖然とした。

「どうした? ジェイドは中にいるぞ」

 王族にしてはひどくゆったりとした服装の大雑把そうな印象の抜けない九世の王とのかなり意図的な会い方に、アッシュは軽く頬を引きつらせた。敢えて陛下に最後の迎え頼むことはないだろうとアッシュは喉に引っかかりそうな嘆息をし、数秒もしないうちに開き直ってずかずかと足を踏み入れる。後ろでナタリアが陛下に短い挨拶を交わしているのが聞こえたが、さっさとあの軍人との会話を終わらせたい気が先を急がせた。

「俺の部屋にいるからなー」

 陛下自身はついてくる気はないらしく呑気に手を振ってそのまま俺は邪魔らしいからなーとぼやきつつどこかに出かけて行った。国を守るための人間がなぜ国を纏め上げている人間の居場所を奪い取っているのかはなはだ疑問だったが、それを聞く気にもなれずそのままナタリアが後ろから教えてくれたとおりに真直ぐ進む。

「おやおやずいぶん遅かったですねえ」

 盛大に扉を開け放った陛下の私室の中心で堂々と足を組んでゆったりしている軍人服の男がこちらを向いて発した言葉はそんな感じのもので、それは遠回しにとろいといっているのかと逆上しそうになったが、すぐに当面の用事と呼び出しの事を思い出し一通だけ残った封筒を男に叩きつけた。

「コンタミネーションは俺が消えるものじゃないのか」
「そうでしたねえ、貴方は勘違いしていたのでした」

 喰えない奴を演じているような節のある軍人はいつまでもその人間性は変わらないらしく、以前とまったくずれのない表情のまま、顔に当たる直前の封筒を手で掴んだ。数刻だけ封筒をまじまじと視線を送り、すぐに納得したように中身も見ずにテーブルの比較的中央に遠慮なく置く。

「どういうことです」

 ナタリアがすぐに小さな気迫の入り混じった声で問いただし、その後思い出したようにお久しぶりですと遅れた挨拶を述べた。アッシュはそんな事をするつもりもする相手でもないと決め付けていたので便乗しなかったが。

「簡単に言えば、コンタミネーションはレプリカの体にオリジナルが融合し、オリジナルの自我と記憶、そしてレプリカの記憶だけが残るんですよ」

 それを早とちりしていたようですねえとジェイドは肩をすくめてみせる。アッシュはなんとなく予想していた答えなだけに大きな反応を返すことなく、それでもわずかに眉を寄せたが、ナタリアは何も聞かされていなかったらしく、疑問の声を短くあげてから眼を見開き手で口を押さえ「そ、外で待っていますわ」と言い残すだけ言い残して部屋を飛び出した。その踵を返すナタリアの瞳の縁に透明な液が溜まっていたのをアッシュは見逃さず、とりあえずジェイドに怒眼を飛ばす。

「私の所為ですかねえ」

 わざとらしい罪悪感を漂わせてジェイドはかくりと首を折った。まるでこうなった原因はナタリアを連れてきたアッシュにあると反対に責められている気がしつつも、アッシュはこの際全部忘れることにする。すぐにでもナタリアの元へ飛んでいきたいが、言っておかなくてはならないことと聞いてしまわなければならないことがあり、無闇に動くことは出来ない。一つのことに執着しすぎるのは己を滅ぼすに等しく、それにこのどんな毒物に当てられても死にそうにない軍人は自分の情報を望んでいるはず。有益なものは使うべきだ。そう自分に言い訳しつつアッシュは適当に戯言を聞き流して話を戻す。

「だが、俺の中にはやつの記憶の一部しかない」
「というと?」

 その言葉を待っていたかのようにジェイドは眼を妙に光らせて先を促す。アッシュは確かにその輝きを見たと感じたが、対応がいつもの調子とまったく変わらず眼の輝きもすぐによく分からないものに変わっていた。

「真ん中がすっぽり抜けているんだ。この頃は端の記憶もだいぶ薄れている」

 ふむとジェイドは一つ頷いてそのまま黙り込んだ。その沈黙も白々しくアッシュからしてみれば演技のような気がしてならない。それほどジェイドは嘘をついている。嘘を嘘で塗り固めて形成されている一つの人形のような存在だと前々からなんとなく思っていた。万が一本当の事を言っているときはきっと嘘の裏を掻き過ぎて意外に真実と対面したときだけだとアッシュは勝手に解釈している。

「これは本当にコンタミネーションなのか?」
「信憑性のないことは言わない主義なんですよ」

 もう口外する気はないと裏で言い切った軍人をアッシュは生暖かい目で見、すぐに挨拶無しで陛下の所有物のはずの部屋を出る。
 今のであらかたの事情は分かった。とりあえず、小さな希望は繋がれているらしい。ならさっさと還って来い。お前の代わりの雑用はこれで充分やらされてるんだからな。





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[2012/08/25 - 再録]