以前は何年も空けて訪れてもただああ来たんだなあとなんとなく感じるだけで、決して懐かしいだとか執着の意を感じることはなかった。あの時は何もかもが忙しすぎて周りを改めて眺めることはなかったし、だいたいそれほどの思い出もないただの集合地点としかアニスの心に残っていないぐらいの生活の一片なだけで。それが今になると数ヶ月空けただけなのに、こんなにも帰ってきたんだと感慨にふけってしまうのは、きっとこの街に愛着がわいたのだろう。
 貴族を飾るけばけばした物ではなく天然で素朴な自然を感じさせる暖かい色で咲き乱れる花がとても美しくて、密封に近い修復された塀に囲まれているからこそ時折迷い入ってくる風が優しく拡散して頬を撫でて。ここ特有の、ここでしか感じられない空気がアニスは好きだった。
 そしてこの事を気づかせてくれた、周りの事を気にかける術を教えてくれた仲間たちに多大な恩を受けている。恩を踏み倒していた昔の自分と実はそう変わり映えするものではないが、それでも大切な人には倍にして返すとアニスの信条は徐々に良い方向へと動いていた。それはきっと両親以外で大切な人が何人か出来たことと、そういう恩情を見せてくれた青年のおかげだとアニスは遠い日を顧みた。実際そんな遠いわけではなくたかが年を一回り以上しただけのごく身近なもののはずだが、あの時の時間の速さを経験すると感覚がおかしくなってもうアニスの中では分類上過去になっていた。暖かな大切な、忘れもしない思い出。
 町を出て行く兵に頭を垂れられつつ門をくぐってすぐに町人の目がアニスに集まった。「お帰りなさい」と少々驚きを隠しきれていない人々に囲まれてアニスは「ただいま」と勤めて明るく応えた。また来たのかと毒を吐く若い男の声が数十層で耳に突き刺さるも、それは至って暖かな切り傷でアニスはほのかに微笑んで対応した。アニスはその男たちの言い分はよく理解できているつもりだし、前の自分だったら低い声で呪詛を吐きかけていただろうけれど、今はちゃんと変わってきているから。
 男達は軽い罪悪感を見せてふんと鼻を鳴らし唾を地に叩きつけて踵を返していった。アニスではなく周りの連中が「なんてことを」と心にもなさそうな事を呟いて、眉を寄せた顔で「ごめんなさいねえ、あの子たちったら」と近所のおばさんのような事をのたまった。近所の人ではないがおばさんだったので妙に様になっていたが。それにアニスはゆるゆると首を振り「いいんです」と本心を一言呟いた。あなたよりかも、ずっとね。




「あー……」

 ゆるゆると流れる時にずいぶん流されてから涼やかな天気に気持ち晴れ晴れで町の視察にちょこちょこ散歩しているとぼさぼさ頭の少年がアニスの前方で花を眺めていた。まるで囚人のような服装でもしかするとその罪人よりもひどく貧相な格好をしているかもとアニスは少年の瞳を見てすぐに嫌な納得の仕方をした。虚ろに宙を泳いでいる輝きを失った、元から何も入っていない瞳。それはもう逢うことのない見慣れた少年とまた逢える可能性は捨てきれない青年と同じ種特有の、しかも生まれたてのレプリカだった。
 アニスは近寄ろうとしたが少年はいきなり立ち上がり危うい足取りで広場の中心の花畑を囲うようにぐるぐる回り始めた。それと何回も何回も繰り返し、いつ終わるのだろうとしばらく遠めに眺めていると一人の苛立ちを隠そうとしないふけた男が少年の腹部を蹴り上げる。

「お前など生きていなければどんなに不快な思いが減るだろうなっ」

 アニスはぎょっとして立ち尽くしていると男の周りに大人たちが集まりだした。そうだそうだとわけの分からない事を傍からほざきながら大人気なくも少年を花園へ追い払おうとする。その手には花園へと続くあの檻を開ける鍵が握られていて、降りているはずのそれが口を開けているのに遅くも気づく。アニスは二つに束ねた黒髪を跳ね上げ駆け寄りながら「ちょっと、やめなよ」と静止の言を叫ぶが大きな邪な意思に飲み込まれ誰一人として気づかなかった。こんなとき相手が町人で更に大所帯になっていなければすぐ少年の盾になれるのに身長や体重の差でどうしようもなかった。人々のよく分からない言い分をいらいらと耳にしながら人垣を無理に掻き分けようとした時、アニスは一人の女の人に眼を奪われる。こんな大人たちの群れに入っているにもかかわらず少しだけ心配そうな罪悪感で歪んだ顔を少年に向けて見つめていた。アニスが眼を見開いて女性を凝視しているのにも気づかずに。

「ああっ」

 女の人が恐怖に顔を乗っ取られひどい形相で声を荒げたのにアニスはびくりと肩を揺らしすぐに少年関連で何かが動き出したと察し、顔ごと少年に向ける。

「ちょ……!?」

 少年を取り囲む一人がこともあろうか少年のひ弱な肩を勢いよく押した。少年は抵抗の術を知らず、ただ嫌な音を頭と地から発してそのまま転がっていく。
 その先にあるものは。
 視線を転がる少年の先に延ばし、アニスはようやく事態の深刻さに気づいて舌打ちした。
 あの先に塞がっていないひずみがあるのを知らないのか。それはごく少数のものにしかかなり深いものだという情報が流れておらず、さらに最近簡単な木片での修正が半端にされたらしくその適当さに大したものではないと思わせるための拍車をかけている事をアニスは今更ながらに感じ後悔した。こんなことなら最初から修正しないよう声をかけておいて整備が終わるまで知らしめとして残して置けばよかった。多分町人は低いと勘違いして少し怪我させてやれと軽い気持ちだったに違いない。
 アニスは甲高い声でどいてと人垣を掻き分け、胸中だけで邪魔だ退け屑がなどと普段の民間人が知っている言動とはかけ離れた言葉を次々と吐き出し前へ前へと体を押し込む。ぎゅうぎゅうにもみくちゃにされるもようやくアニスが人ごみを抜けて眼を走らせると少年が穴へ転がり落ちるところだった。ご丁寧にいつだかの後遺症で木片がほとんど吹き飛ばされていてぽっかりと穴が開いていてこのままでは間違いなくまずいとアニスはとっさに少年に手を伸ばす。けれど少年はだらりと手を垂れたままで、ただ虚ろな瞳が少しだけ光を宿したのにアニスは息を呑んだ。この子は、優しすぎるんだ。 直感がそう叫んだ後、重力はこんなときでも無情に素直で少年はお構い無しにひずみの中に落ちていった。アニスは条件反射で背中にかけてあったトクナガを思い切り穴の、少年の下に潜り込むようにたたきつける。 どうかお願い、あの子を死なせないで。
 同情でもなくあてつけでもなく、ただあの少年の瞳に生きる希望を見つけたから。アニスはひじを突き手を組み目を閉じた。気配はどんどん遠くなり、やがてトクナガが巨大化した音とその上にバウンドする衝突音がうっすら耳に届く。その間隔があまりにも短く、巨大化する前か直後に少年が乗っかってしまった確率がアニスの中で拡大した。それでは衝撃が充分に減っていない。

「誰か、ロープ持ってきて」

 青ざめた顔を必死に押し殺してアニスは顔を向けずに背後に罵声を浴びせた。数秒待ってもただ無言が返ってくるだけでアニスはいらだつ。
 何で皆こんなにも彼らに対して冷たいの。
 じゃあ自分はなぜこんなにも親しんでいるの、彼らとの約束を守るためだけに頑張っているのでしょう。
 そんな言葉が脳内に反響してアニスはゆるゆると首を振った。私のためだよ。自分の理想を実現するため、彼らが彼らであれる世界に。それが私の願いでもあり彼らの願いでもあったから。

「さっさともってこ」
「もって来ましたよ、お嬢さん?」

 むかむかと怒りが増殖するだけして限界に達して怒鳴りながら今度はものすごい極悪人の顔で振り返ろうとしたとき、穏やかな余裕のある脳が聞き覚えている声が頭の上から遠慮なく降りかかった。アニスは中途半端に作りかけていた恐ろしい顔を解き代わりに眼を真ん丸くさせながら大きくのけぞり首が痛みを訴えた所でようやく見えたその長身に驚愕した。逆光に打たれながらほのかに微笑んで見える、そこで確かに立っている金髪の。

「ガイ、どうして」
「君があまりにも遅いから迎えに来たんだ。話はだいたい分かった」

 変わらない物ごいで語りつつ長い長いロープを腰に巻きつけ終わるとガイは巻きつけたロープから一番遠い端っこをアニスに手渡した。呆然とアニスがその行動を見つめる中ガイは「じゃあ、いってくるから」と軽く手を上げてそのままひずみに飛び込んでいく。それにアニスは現実に引っ張り出されひずみの中に身を乗り出し大きく彼の名を叫んだ。崖のような地の肌をガイは靴で抉り取りながら適切な慎重さであっという間に見えなくなりただそこには暗い暗い闇が遠慮を知らずに広がっているだけになる。
 ひずみに飲み込まれたガイと少年の無事を祈りながら、不本意ながらも待つ側になったアニスは小さく大切な人の名前を呟いた。ロープの端をしっかりと握り締めながら。目に見えなくても絶対絶対見失わないように。





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[2012/08/25 - 再録]