――まいったなあ。

 まったくもって当然のことだが、標準よりもやせ細っているとはいえ立派な男の子と所々破れ綿の飛び出たぼろぼろの人形を同時に抱えて空の見える出口まで登るのは、いくらなんでも成人男性より数段も高い腕力と運動神経を持っていたって無理としか思えなかった。更に周りにつったっていた町人はいい気味だざまあみろ、でもあの使者に怒鳴られてどうするべきかあたふたしているといった、かなり反協力的な態度であったし、実際助けようなどとは夢であっても思わないのだろう。その結果必然的にアニスだけで引き上げることになるわけで少女一人で少年だけを引き上げるのも結構な無理がある。
 さてどうしようと比較的平静に思いつつ、少年に眼を向けるとそこには虚ろながらも空を見上げる瞳があって見られている事を気にするそぶりもなく、ただ蒼い蒼い中に浮かぶ薄い海を仰いでいた。その様子が帰ってきたと思い込んでいた、生まれたての彼に似ていてガイは複雑な気持ちになる。生きる死ぬの前にただあるものをあるままに映すその心が、あのときの自分には恐怖にしかならなくて必死に兄貴面で接していたのを思い出し小さく自嘲した。それだけ必死に自分を保とうとしていたってわけだ。多分彼らもこれが怖いに違いない。何もかもを詠まれているような深い深い澄んだ瞳が。けれどそれは今のガイにとっては心地よい赤ん坊の反応として、微笑みながら見届けられるものとなっていてガイは緩やかな表情で少年の頭を撫でる。
 大丈夫、何とかなるさ。
 頭に何かが被せられても何一つ反応を示さない幼いレプリカから頭にあてていた手を離し人形の綿を少し中に押し込みながら心の中で呟いた。その時一粒の雫が落ちてきて、ガイの頬を濡らしまるで自分で流したようにそのまま地に吸い込まれていく。それに半ば口を開き上に首を曲げるももう雫は舞い降りてはこなく、小さく遠い世界から聞こえるような微妙な差を感じる崖の上で待ってくれている少女の声を聴覚が捕らえ、これから何かが動き始めるらしいことを理解する。そんな中、空はいつものように蒼く色を飾っていてそれが本当の色なのかは分からなかったが、ガイはなんとなく人間の勘違いでも空が蒼で良かったと心底感じた。沈みきった心を救う、控えめな希望に満ちた爽やかな色。




――どうしよう。

 よく考えなくても分かっていた。どちらの役割を担っていても自分は役に立たないことなんて。アニスは今更自分の無力さと使えなさに腹が立った。下に降りても少年を抱え込める自信はないわ上で待機していたって少年だけでさえ引き上げることは出来ないわ。一般の少女に比べればそれなりの力があると自負できるが結局小さな女の子の腕力などたかが知れている。せめてトクナガがいてくれれば話は別なのだけれどあいにく彼は少年の命を救うべくアニス自身の手で下に落とした。万事休す、あるいは四面楚歌。

「誰か手伝って」

 ダメもとで声を投げかけてみるもやはりダメもとの域を突き破れずに無言の痛い静寂が返ってくるだけ。助けようと思わないのならさっさと帰ってしまえばいいのに、町人はそのまま棒のように立ちすくんでいるだけで明らかに存在が邪魔だった。これだけ騒ぎになっても兵や軍が介入しない所をみると復興作業に駆り出された兵はこの間門前で会った、仕事を終えたさっぱりした顔の奴らだけで全員グランコクマに引き上げていったことが伺える。多分この町の元老達は会議中だ。おかげで皆一箇所にまとまってどうでもいい論議に精を出していてどうでもいい茶番を繰り広げてこの状況に気づいていないのだろう。必要なときに限って使えないくせにいつも偉そうに我が物顔で歩いている大人どもに毒づいてから、アニスは今度はきちんと振り返りはっきりと告げた。

「手伝うかどっかいくか、どっちかにして欲しいんだけど」
「……お前に言われる筋合いは、ない」

 帰って来た時にアニスを取り巻いた町人の一人が詰まりながらも否定してきた。アニスは小さく鼻を鳴らしようやく仮面が取れたことに小さな安堵を覚える。こんな所で見たくはなかったけれど。

「町の修復を手伝ってくれていたのは感謝する。だがそれはお前みたいな小娘ではなくダアトに、だ」

 そうだそうだと少年の時のように声が上がりはしたがそれはだいぶ小さなか細い悲鳴のようだった。それなら少年よりも大きな罵声を浴びたほうが逆にすっきりするというのに、中途半端な奴らめ。  ダアトの代表、使者としてしか見ていないことなどアニスは復興作業のために訪れたときから知っていた。アニスを見る目がまるで自分の金持ちに対する本人自身を透かした先にある巨大なものをみる眼だったから。こんなにも不快な気分に晒されるなどなってみないとわからないもので更に露骨にこられるものだから思い切り拳を振りかぶる気にもならない。
 ついでに彼らには自分の現在の役職を語ったことはないし本当に身内並の親しい者にしか教えた覚えもないので知らないはず。内部にしか知れ渡っていない教団の高位部がすっぽり消えた一連の事件。その上でこの小娘が全てを見聞きし更に前導師の御心を受け継いだことにより、前代未聞の恐ろしい速度で手に入れた高い位置づけ。町一つの修復を己の力とほんの少しだけもらえた師団の兵を使えるほどには苦労しないくらいの願っていた権力を手に入れたことなど気づきもしないし考え付きもしないはずだ。世の中やっぱり馬鹿げている。こんなことで世界を見る目が変わるなんて。

「それにあの薄気味悪い偽者を助ける意味もない」

 何も知らない人間から出てくる言葉にアニスは反応を返すことにさえ疲れを感じ止めることにする。ただ町人の顔を一つ一つ眺め回しているように見せ全員が怖気づくまで眼を適当に向けるだけ。
 何が薄気味悪い、だ。同じ人間、魂ある子どもたちなのに。世界を救ったのがその偽者、映しものだと耳にしたらどんな反応が返ってくるのだろう。あのたくさんの犠牲者を生んだ障気を消し去ってくれて、更に間接的に世界を守り抜いてくれたというのに。彼らの同類たちが私達を生かしてくれたというのにこの自惚れがたい人間ときたら。
 ふとなんとなく、アニスは自分達が倒してきた赤髪の青年が師匠と慕う男の言い分が判った気がした。こんな曲がった者達を生かしておくくらいなら、まっさらな無の中から命を育んだ綺麗な魂に世界を形成して欲しい。それこそ一つの楽園で多くの共存と平和の成り立つ理想郷。

――違う違う違う。

 そんなことなどどうでもいい。根本から間違っている。それこそ偽者の平和でしかなく心と心が通う前に人間がなくなって世界ではなくなる、ただの世話をする者がいない放し飼いの箱庭。アニスは知っていた、知っていたはずだった。彼らが大切な人たちが望んだ世界はこんなものじゃないと。映しものと人間が共存して認められて普通に普通の生活が誰にでもできるような、そんな世界。それが本物の理想郷。
 どうか暖かな陽だまりの中で、生きていて。私が私たちが用意するから。
 しばらく沈黙が続き、いい加減飽きてきたアニスは結局そのまま立ち止まっている町人を一切無視してロープを腕にぐるぐる巻きにした。腕一本がなくなるかもしれないがそんなことで彼らが助かるのなら安いもの。下に垂れるロープが張ってきたところで巻きつけるのをやめ、アニスはなぜか一筋頬を流れる液体に眼を見張った。ぽつりと落ちていくのを手で止められずそのまま呆然と目で追って闇に飲み込まれた所でロープを巻きつけていない手で目元を撫でる。それだけで涙は止んでなにが起こったのか理解できなかったもののアニスはそんなことは些細な事とさっさと流して大きく口を開け「今から引き上げます」と叫んだ。後ろで動揺のざわつきとできるわけがないという嘲笑いが生まれたが放っておく。構っている時間があるのなら、それを全て彼らに捧げる。

「ガイ、待っててね」

 大切だから、きっと大丈夫。
 一言小さく囁いてアニスはそれから無言を通し勢いづけてロープを引っ張った。巻きつけていた箇所が大きく食い込みアニスは顔をしかめたが遠慮なく続行する。また違う種のざわめきが起こったのを聞く余裕も気力も義理もなく振り向かずにいたって無関心を通し歯を食いしばる。それでも全然持ち上がることなく腕をきしませる感覚が大きくなるばかり。

「――せーのっ」

 いきなりずいと細い腕がアニスのロープで巻かれた腕の先のぴんと伸びたロープを掴んだ。アニスは眼を見開いてその手を辿っていくと先程少年を心配そうに見つめていた女の人で更に驚愕して力が抜ける。

「もう少し頑張ってください。そろそろ会議を中断して、兵士さんたちが来てくれますから」

 早くも顔に汗の玉を噴き出させた女の人は下に落とした瞳をそのままにアニスに嬉しい吉報を伝えてくれた。いつそんな動きがあったのか分からないが気にするよりもただ純粋に少年を想っている人がいて胸が熱くなる。アニスは顔を明るめ「はい」と大きく頷いた。

「こっちだ、こっち」

 早くしろよとろいなあと勇敢に罵声を浴びせる男の声が聞こえたと思ったら今度はアニスの腕から徐々にロープが外されていく。

「嬢ちゃん、自分の体は大事にしな」
「そうだぞ、無理をするのは俺らみたいな民間人でじゅーぶん」

 そんな事を愉快な声で呟きながら、いつも毒を吐いていた男達がアニスと女の人を後ろにどかしてそこでロープ支えてろとの気さくな声を二人にかけた。やがて兵が纏う鎧のこすれる金属音とがやがやとしたアニスにとってはこの上ない暖かさをもった援軍がやってきて、泣きそうになりながらもほっとした顔をみせる女の人の隣でロープの端を握り続けた。




 ロープを引く掛け声というより喧騒といえる町の声と変わらずに吹く優しく頬を撫でる風の相容れなさをぼんやりとアニスは感じながら勢いと共にやってきた歓声を耳にした瞬間立ち上がり大人たちの間をくぐってその中心部に首を突っ込んだ。

「やあ、無事助け出せたよ」

 何も不安に思っていなかったというような清々しい笑顔を目にしアニスは確かに脱力した。そのまま地にへたり込んで虚ろな瞳の少年と綿の飛び出たトクナガとガイを順に眺める。「な、んでよお」

「まあまあ、過ぎたことは気にしない」

 少しびくついたガイの手が頭を撫でるのに少しの子ども扱いされたという憤慨と大きな安堵が一気に流れ込んできてアニスは目の淵に涙をためながらもトクナガを乱暴に奪って抱きかかえ、少し遠くの少年の頭に手を伸ばしてゆっくり撫でた。

「ありがとう、生きていてくれて」
「とうい、え……?」
「希望、持っているでしょう。優しいでしょう。それだけで充分だよ」

 それだけで。
 それだけで、どんなに生きることの意味が出来るかを知っているから。
 アニスはそんな本心を噤み、ただ零れ落ちそうな涙で濡れる視界ながらに少年を探し一つの命に向かって微笑んだ。




「私に引き取らせてください」

 少年の傍に近づいてきた女の人の言葉にアニスは涙を落ちる前にふき取りながらにこりと笑んだ。そういってくれると思っていた。この優しい眼をした女の人は。

「貴女はこの子をいつも見ていましたよね」

 その途端女の人は眼を見開いてから罰の悪そうな顔をした。そんな風にしなくていいのにとアニスは思ったが口にはしない。したってもっと困惑するだけだろうから。

「この子、いつも花を慈しむようにみているんです。見慣れているからか、誰もそんなことしないから、すごく嬉しくて」

 聞くところによると彼女は花屋を営んでいるらしい。町は花に溢れているから皆見慣れていて子どもはそうでなくても大人にいたっては踏ん付けたって気にするそぶりも見せない。そんな中一人だけ一心に花を見続ける少年に愛着がわいた、と。

「いい奴になるよ、こいつ」

 会話にひょいと入り込んできた男にアニスは苦笑し隣で突っ立っていたガイは後ろから来たもう一人の男に「よう、頑張ったな兄ちゃん」と背中を叩かれうっと詰まった声を漏らした。その声の方にアニスは驚き「だいじょうぶ?」と一応声を投げる。

「ごめんなあ、嬢ちゃん。奴らとおんなじように見られたくなかったからな」

 人のいい笑顔を久しぶりに見てアニスはまた少しだけ世界が好きになった。こんな人がいるからまだ人間は生かされているのだと思う。スコアではなくこの荘厳な大地に。

「大丈夫ですよお。前に親切にしてくれたの、覚えてますから」

 仲間達と旅をしていた頃にこの町を訪れた時一度だけ宿が空いていないときがあって、その際気さくに男は自分の家に招待してくれた。それは旅の中でも最も暖かな夜ですごく楽しかったのを覚えてる。ガイもようやく思い出したらしく「ああ」と小さく頷いたのが聞こえた。というか今まで忘れてたのか。

「今回もお世話になっちゃって。本当に助かりました」
「なになに、町のために死力を尽くしてくれる教団の幹部で人当たりの良い可愛い女の子といっちゃ助けない方がおかしいだろ、なあ、そこらのイカレ馬鹿」

 とかいいつつ縮みながら前を通った馬鹿どもに認定された大人たちに話を振る。振られた町人は甲高く短い悲鳴を上げて逃げていくのをアニスは横目で見ながら先程から疑問視していた事を尋ねる。

「ところで、何でその事を知って?」
「この前キムラスカの姫様が来てただろ。彼女も俺のこと覚えててくれてなあ、君達に対する恐れ多い無礼な態度を見咎めてくれた時にそんな話に発展してな」

 どうやらナタリアは彼の態度を素直に受け取ってしまったらしくあの頃に親切な接し方をしてくれたのにどうしてあそこまで激変したのだろうかとちょっとした咎めに入ったらしい。それでアニスのことまで話すのはあまりいただけないが、別にそんなことはどうでもいい事だった。ただ素直に自分を正しく理解してくれたことが熱く心に染み渡る。

「それよりも俺はあそこまで言われて黙った嬢ちゃんの方がすごいと思ったね。大人気ない大人よりよっぽど頭がいい」

 アニスは苦笑しながら一応感謝の意を述べた。そこまで言ったら少し町人が哀れに思えてくる。これはこれで一つの成長なのだろうか。以前はむしろ便乗して嘲笑っていたような。

「あ、あの。アニスさんにお礼をしたいのですが」
「いいですよお、そんなの。貴女の思い切りだけですごく嬉しかったですし」

 それは本心だったし敢えて金持ちでもない人から者を巻き上げるのは今のアニスには心が痛かった。それは立場からのものでもあるしモースが消えたことによっての卑怯な恩の踏み倒しが終わったことにも要因がある。

「じゃあ、花だけでも貰ってくださいませんか? うちにあるものならどれでも」

 必死な瞳で言い募る女性にアニスは断りきれなくなりガイと顔をあわせると「せっかくだからありがたく貰いなよ」という返事が投げられた。
 どうぞ好きなものをと店の中に並ぶ花々をアニスの前に広げ、アニスは困惑しながらもざっと目を走らせすぐに一種の花に眼を惹かれた。

「なら、これを――」

 そういって指差した花を見、女の人に眼を見開かれ「こんなものでよかったら全部もっていってください」と結局大きな花束になってアニスの腕に収まり、とりあえず一区切りがついた気がして安堵の息を細く漏らした。





/ /




[2012/08/25 - 再録]