――もう何日繰り返してるんだか。

 もう何度繰り返しているのか数える気にもなれないくらい思い続けた文句に、アニスは嘆息をついた。同じ所をぐるぐる回っているような気に晒されながらも歩き詰めのがくがく言い始めた足に力を入れなおして違う道のりだと思いたい迷廊を一人突き進む。こんなことなら意地を張らずにあの優しい笑みを見せる青年に手伝いを請えばよかったのに。
 そんな思いに駆られ、アニスはぶんぶんと首を振った。だめだめ、これは自分の仕事なのだから人を巻き込んではいけない。大切な人なら、なおさら。
 親切心で差し伸べられた手をやんわりと振り払った心の痛みが再度アニスの胸に突き立てられながら、ただ腕に抱えた水がほとんど飲み干された花瓶の中で刻々と時間制限を現実的に知らせる花にどうかもう少しだけ頑張ってと念を送り、早く姿を現してと願いを統一性のないようである配色のされた壁にぶつけることしか出来なかった。

――本当にそろそろやばいよう。

 色と元気をなくしていく花の群れにアニスは本格的に焦り始めよたよたとした足取りながらに走り出した。前に迫る扉を勢いで押し拓きそこらに散らばる扉を半ば体当たりで開け放ちつつ用がないと判断したらそのまま放置で先を急ぐ。同じことの繰り返しでいまいち進展のない連鎖にアニスは苛立つよりも先に多大な恐怖を覚えた。もしかすると知らないうちに時間のひずみに迷い込んでぐるりぐるりと変わり映えのしない道を歩かされているだけなのかもしれない。実はこの見慣れた教会さえ偽物で出迎えてくれた少年もアニスの両親も部屋も何もかも――?
 一瞬頭が真っ白になりアニスはここまで奇跡的にもつれなかった足をものの見事に絡み合わせ前のめりに盛大な音を立てて転んだ。次々に鼓膜を貫く音は複数でアニスがはっきりとそれだとわかったものはガラスが甲高く割れる音と水の叩きつけられるわずかな襲撃、そして何か柔らかい物が床に当たりバウンドする協和音。頬に浅い痛みが走り髪がなけなしの水に打たれもう立つ気が起きず諦めようかなとぼーとした思考の中でアニスは嘆息を一つ吐く。ここでもいいような気がした。結局この無意味な迷路のどこかに息を潜めているのだからその一部であるはずのここでも。諦め気分とここ数日の神経の酷使状況、更に溜め込んだ疲れと嫌な三拍子にどっぷり体がつかりそうになった時、割れた花瓶からばら撒かれた花の先に飛んだ二つの人形が目に入った。一つはアニスのもののもうぼろぼろに成り果てた相棒で、もう一つはたくさんの罵声と愚弄を飛び交わせたあの一見暗い色をした。

「――おがないなあっ」

 しょうがないのはそんな小さなことでへこたれる自分で情けなくも一度決めようとした事を投げ出そうとした根性無しなのだが、なぜか今アニスには自分より年上なはずの幼く見える昔の友達があの時以来の懇願を自分に向けたような、そんな気分だった。ただそれだけで花瓶の後始末をしようとはさらさら思えなかったので意図的に避けつつ快い花屋の女の人から貰った花たちを再度集めて元通りに近い形に纏め上げる。膝についた掃除のいきわたっていない事実が見え隠れする埃や滓を適当に払ってから薄い水たまりを飛び越えて人形を花束と一緒に抱え込んだ。

「掃除が出来ていないってことは、もうそろそろってことだもんねっ」

 そんな持論を立ててアニスは自分にエールを送り、また一つずつ丁寧とはいいがたい荒っぽさで立て続けに並ぶ扉の先を走っていった。




「……ここ、だね」

 ようやく扉を開ける隔たりを見つけアニスは小さく吐息して腕に抱えた花の状態を確かめた。少しへなっている程度でそこまで質は落ちていなく別に誰が決めたでもない見えない時間制限内に目的地に着けたことに肩や足の力が一気に抜けて危うくまたへたり込みそうになる。アニスは動きの限られた手で綿だらけの人形をぱこぱこ叩き、けほりと吐き出された金属片を落とす前に手中に入れた。どくんと鼓動が高鳴り一度深呼吸をしてから行く手を阻む鍵穴に黙って借りて黙って紛失する気の鍵を押す。かたいながらも力いっぱいねじ伏せがちゃりと音をたて永い時の中で忘れられた、忘れられるように仕向けられた想いが扉が開かれるのと同時にあふれ出した。彼女が欲しがっていた、アニスがずれた交流を持たされた、彼のもとが、本当に。
 恐る恐る中を見渡すと他の部屋よりは若干壮麗に見えるだけのあまり違いのない空間が上下左右にゆるゆると伸びていた。拍子抜けとまあ当然かという矛盾だらけの思いを胸に抱きながらアニスは足を踏み入れる。積もる埃に足音を奪われ更に歩いているのか分からないやわらかな感触が足から入り込んできて不思議な気持ちだった。なんだかここが夢世界のような非現実的な。多分それは嘘ではなく五年以上の歳月の中で生きていた証を置いておくためのなし崩しの大地だったのだ。そしてそれは彼自身のために、己のレプリカを苦しめるために、他でもない少女を想い彼に関するすべての忘却が彼女に訪れないようにという身勝手な心の声で成り立っている今にも崩れそうなもろい地。そんな事を複雑にもつれたものが嫌味なくらい煩雑に絡み合う心境の中で考えアニスは煙たい空気に咳を詰まらせ中央の静かに祭られた墓石の前に立つ。それだけが異様な存在感を知らしめていて質素ながらに思いのほかの強さを感じた。何に関する強さなのかはアニスには分からなかったが。
 しばらくそれをじっと見つめてアニスは人形両方を肩に乗せ落ちないように固定してから思い切り花束を宙に投げつけた。空気の抵抗や摩擦で束がばらけ各々放射線状に気まぐれに落ちていく。ふわりふわりと茎から別れを告げられた花びらが舞い、あたり一面花色に染められた。

「……ありがとうございます」

 柔らかな笑みの似合う花売りの女性から頂いたのは桃色の花。なんとなく、桃色というにはそこまで春のように淡くなく太陽のぽかぽかの光のように明るくもなく、少し影を持ったその色がこの墓に弔われた導師だけの守護役の髪と同じように映ったから。ただ意味のない色で埋まらせてもきっと喜ばないだろうと小さな気遣いで生み出されたアニスなりの知らない人へ捧げる一つのお礼。
 自分が守っていた導師の墓はない。弔う体が世界に解けてただの石しか残らない墓石は必要ないということらしい。ただ魂を空に逃がす儀式を執り行っただけで、だからこそアニスは忘れないようにとどめるように。一人レプリカとして決められた名前を押し付けられた少年の痕跡を残してアニス自身の大きな罪を償うためのひとつの方法として心の強く刻み込んでいた。おもりとしてじぶんをここにいつづけさせるための、かれをけさないようにするための。

「あなたがいてくれたからあの人が、あの人たちが生まれたから」

 花と一緒に飛ばさないように避けていた人形の片方を墓前に添えながらアニスは独り言を語り手の口調で呟いた。いわないと届かないし伝わらないし、そもそも送るわけでも送られるわけでもないが一種のけじめとして。
 ぽんぽんと人形についた埃をお情け程度に落としてアニスは仲が良かったのかもしれない少女を思い出した。巨漢が彼女を運んでしまったからどこに弔われたのか知らないが、ただ彼女との死戦の際に持ち込んでいなかった人形が彼女の部屋に大切そうにほわりと片付けられた机に一つだけ寂しそうにおいてあったから勝手に拝借した。いつも二つの人形を抱きしめていたのにあのときだけ一つで。何でなのかは推測しか出来ないが多分きっと守るべき人間が争いあう無様な姿を見せたくなかったんだと思う。

「ここにおいておきますね。貴方の好いていた人の形見です」

 これは決別だ。ただの自己満足と重荷を一つだけにするための。アニスはこの部屋内でやるべき事を全部やったと判断して、疲れに体をかしがせながら長くはいられないと直感的に感じそそくさと部屋を出た。すぐに鍵を閉めそれから心配顔を人形に向ける。所々布が破れボタンの取れかけた人形は大丈夫というように首を動かし、それが自分の揺れからだとアニスは相変わらず現実をみていたが不思議と信じられる気がして人形を床にゆっくりと押し付けた。人形は徐々に大きくなり通常の半分ほどで伸び悩みぷすぷすと悲鳴を鳴らせる。

「それでいいよ」

 アニスは哀しそうな瞳を今にも完全に壊れてしまいそうな人形に鍵を渡す。人形は鍵を受け取った拳を固め力いっぱいねじ伏せてぐしゃりと鳴り響かせた後鍵穴を軽く叩いて形を変形させた。すぐに力尽きてぷしゅううと細い煙をたなびかせ元の大きさに戻る人形をアニスは腕で包み込む。

「ありがとう、お疲れ様。トクナガ」

 ぎゅうと人形を抱きしめてアニスはついに自分から床に座り込んだ。声を押し殺して静かに泣いて、もしかしたら昔々に慕っていた少女もこうやってあの時泣いていたのかもしれないとどこか頭の冷めた部分で思いにふける。対立する前に何度か女の子同士でしがらみなく笑ったあの日々がどうしても引っ張り出せないほどの過去に定着してしまったあとのこと。導師の名を何度も何度も呼んで二つの人形を抱きしめながら。
 これで永遠に二人きりだから。だからどうか、もう二人して苦しまないで。この大地で生きていきましょう。





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[2012/08/25 - 再録]