少しだけ格調高く見える廊下をアニスはぼろぼろの人形を手に黙々と歩いていた。独り言をぶつぶつしゃべる趣味も元々厳粛な場の空気を無意味に壊す気もないしそもそもそんなことで体力の浪費をするのは馬鹿らしかった。いつものように疲れが見え隠れしないよう顔を朗らかにあげて規則的に足を進める。そのはずなのになぜか兵や教会関係者にいぶかしまられながら頭を垂れられるのはどうしたものだろうとアニスは首を傾げた。何か変なことでもあったのだろうか。
角を曲がると私室が見えてきて同時に壁に寄りかかり本に眼を落としている金髪の青年の姿も瞳に映る。ずっと自分を待っていたのだろうかとアニスはそれしか考えられない愚問を一人心中で思いわずかに罪悪感が芽生えた。入っていればいいのにと半ば自業自得と押し付けようとしたがそれはあまりにもありえないことに気づいてアニスは小さくため息を吐く。ガイが無断で女の子の部屋に侵入しくつろぐ人間ではないし、たとえ許可を前もって下したとしても長時間でひとりとなると慎んで辞退して外で待つと言い張るだろう。
「お疲れ様、休んでからにするか?」
「久しぶりー、大丈夫。早くやること片付けたいし」
ガイは足音に反応して数秒後に視線をアニスに放った途端にぎょっとした目つきになった。ガイまでそんな反応を返すのかと人形を握る力を強め顔を俯けたときに一緒に見えた自分の格好ですぐに納得する。擦り傷や埃更には花びらまみれ。髪がびっしょり二つに束ねたリボンも解けそうなくらいにへなへなしていて今にも重力にしたがって落ちそうになっているのを髪の降下具合で察する。一体どれだけの事をすればこんなに不可解な汚れ方をするのか何も知らない人間からみればそれはそれはおかしなものなのだろう。今まであてられていた冷たいような蔑んでいるような心配されているようなでも声をかけるのは憚られるなという瞳はきっとこれが原因だとアニスはようやく気づきながらも恥ずかしがる気になれなかった。疲れが体に居座り続けていていて軽くそれどころではない。
「……十分だけ時間ちょーだい」
「どうぞごゆっくり」
苦笑と苦笑が重なり合いそれで打ち消されるどころか更に奇妙な雰囲気になって結局一番周期の短い時計の針が一回りするくらい続けてからアニスは微妙なタイミングでそこで待っていてという旨に念を押し自室に早々と駆け込んだ。
汚れを落としたついでに疲れも一緒に消えないかなあとほんの少し期待してみたもののそんな都合のいい話は実現しないことになっているらしく、むしろ先程の決別が流されていきそうでアニスは慌てて心の中にしがらみを作った。
逃げちゃダメに決まっているじゃない今までのこと全部忘れるつもりそれとも私は都合の悪いことは忘れ去る人でなしなの。
視界がぼやけていくのを自覚しアニスはもう一度強く叱咤した。してからなぜか無気力に近いものになりしんがりの内容を少し緩める。
ならせめて、せめて彼といる間だけは泣かないで。彼の心配事を増やさないで。私が私でいないと皆が皆でいられていると思えなくなっちゃうから。
彼が仲間達の事を気にかけていることは知っていた。大方絆がまだ繋がっているのかが不安なのだろう。その不安を増やすなどできるわけがないししたくない。
しばらくうずくまった後ガイをずっと廊下で待たせるのも悪いとのろのろと水で洗い流してすっきりした体を手早く拭いて着替え始める。おそらく母が洗濯した服は気持ちを支えるようにしっかりしていて、少しだけアニスに力をくれているとなんとなく思った。
いつもの朝のようにめまぐるしい身支度の整え方をして二通の封筒とマッチを引き出しから引っ張りだしぱたぱたと扉に近寄ってから二三回顔を叩いて引き締める。うん、大丈夫。いつものようにいつもらしく明るい元気な子でいればいい。
「おまちどーさま、いくよお」
ばたんと扉と壁のぶつかり合う音を廊下に響かせながらアニスは明るい声をつくってからガイに被害が及んでいないかと今更に思い至って衝突しなかった壁の方に寄りかかっていたガイに視線を送る。眼を瞬かせ本を取り落としそうになりながらもガイは無傷らしく、ただしいていうなら扉の風圧でページが捲れ先の話が除き出ただけみたいだった。
「ごめんね、さー行こっ」
それだけなら別に問題ないかと本にまったく興味がないどころか安眠または悪夢の最終兵器としか見ていないアニスは今度はゆっくりと後ろ手に扉を閉めつつもう片方の手をガイに差し出した。きっと多分大丈夫。もうそろそろ恐怖も薄れている、と思う。というか思いたい。
「――ああ」
一瞬びくりと旅の時のような反応が返ってきてまだ無理だったかとアニスは落胆したがすぐに取り繕うとしたように触れた大きな手と穏やかな声に下げかけた顔をあげる。
「ほら、いくんだろ」
今迄で一度だけ握り返された手がアニスの手のひらを包み込んでいてなんだか嬉しいのか微妙なのかわからない気分になる。多分嬉しすぎてよく分からないくらいにまで達したか最初のびくつきを根に持っていて機嫌を損ねたままかの二択。アニスの直感では間違いなく後者。我ながら身勝手な言い分だった。
「…うんっ」
ガイの爽やかな微笑を見てアニスはもうそんな些細な事を考えることに面倒くささを感じ一つ息を尽きてからガイの手を引いた。
「そっちはおっけー?」
「いいけど……本当にいいのか?」
答えつつも小さく冷や汗をかいているような声にアニスは内心でくすりと笑った。優しいからそんな事を聞いてくれるんだ。アニスの立場が危うくなるかもしれないことを見越しての。
「大丈夫大丈夫。燃え移るものもないし元々は祭壇の一つだから」
もし見つかったら祭壇の不慮がないか確認していただけと嘯くだけだ。そっちの準備も、ばっちり。鬼ごっこの際にフローリアンが見つかったらしい場所がここみたいなことを聞いた気がするが、別に敢えてここを選んだわけではなく、ここ数日で手に入れた教会迷廊の知識によりアニスの私室から一番近い祭壇の場所だったからだ。理由などそんなもので基本的に後付が多い。人間は直感で行動することがほとんどだから。神聖な雰囲気の中で消し炭に去れるのだからこの神達も報われるだろうとなんとなく思ってみるがすぐに柄じゃないと寒気が立ってやめた。結局は燃やされるのだからどこでもいいだろう、が自分らしいとアニスは自嘲する。
「じゃあ、いきまーす」
間延びした声で始まりの合図をしてからガイがアニスが墓探しをしている間に綺麗に直してくれた祭壇の上にぽつんと置かれた封筒ごと拝火台に炎を灯す。ゆっくりゆっくり燃え上がって気高い獣のように触れる事を許さない強さに、アニスは一緒に燃えたくないなあと二、三歩さがる。揺らぎ瞬く火を見てアニスは無意識にあの紅の髪を連想した。帰ってきた彼のことはガイ達にももう伝えてある。あちらは知らないがガイの苦笑はなんだか心が痛んだ。いつかちゃんと皆が皆いつでも忘れない仲間であれる関係になれればいいのに。もちろんずいぶんの間孤独に苛まれた紅の青年も。そしてどこかにいると思われる生きる事を願われた彼も。
その暖かな光でアニスはアニスしか思い出さないだろう事が脳裏に引っかかった。忘れもしない幼い日に交わした誓いというには正式さの欠ける約束を。
「あのね、両親の事なんだけど聞いてくれる?」
二人で意気投合して燃やすことにした成人の儀の招待状が遠慮なく火花を散らし嘆くのを聞きながらアニスはそんな始め方で言葉を綴る。親を抹殺されたガイにこんな話題を振るのはある意味も何もなくただ残虐なことだと何度も思い切れなかったけど聞いて欲しいという心はなくならなかった。言い訳にも聞こえる、懺悔のような呟きだけれど。
「どうぞ」
それでもガイは快く許してくれてアニスは少し安堵する。自分勝手な安堵でもある方が気が楽なのにこの安堵は相手を傷つける安堵なのじゃないかと思った。代価交換で引き渡される傷つけ人形の報酬みたいでアニスは眉を寄せたがせっかくの好意を無駄にするのももったいない。
「お母さん達ね、信じるのをやめなさい、疑って生きなさいって預言が詠まれたんだ」
一度だけスコアを詠んでもらった両親はそれから一度も正式な星からの授かりを受けていない事をアニスは昔から知っていた。それを幼いアニスは今と同じような考え方でどうせお金がないから受けたくても受けられないのだろうと決め付けていたがどうやら違うらしく、それがどんな笑い種か詳細を尋ねてみると両親は柔らかく微笑みながらアニスが知らず心を痛ませるほど優しく優しくいったのだ。
「預言を否定するわけじゃないけれどやっぱり人を信じていたいからだって。まずスコアを疑ったとかそういうわけじゃなくて、ただ純粋に人が大好きだから今詠まれたものは使わない参考程度に捉えていきますっていったんだって」
そんな事を告げられた途端にアニスは謝り通したものだ。今まで馬鹿って言ってごめんなさい人を信じられるほど大きな人じゃなくてごめんなさい――
「謝ったらお母さん達、なんていったと思う? そんなあなたも愛しているから、私達はあなたに嫌われていなければ幸せだからって」
瞳の裏でじいんと連鎖するものがあってアニスにとっては心地よかった。あの暖かさは本物で、揺ぎ無い心は真実で。
「だから私は守るって決めたの。スコアを破って思い切り不幸になっちゃった両親だけどあの人たちは幸せだっていってるから、信念を貫いている私の自慢の両親だから」
「いい両親だな」
しみじみと添えられたガイの言葉にアニスはぱっと顔を明るめた。いつも馬鹿にされてばかりの両親を褒めてくれるのはカモにする張本人か蔑みの含んだ嫌味な奴らかだったから。
「とーうぜんっ! なんてったってアニスちゃんの親だもの」
ご静聴ありがとうございましたあと深々と頭を下げてくるりと拝火台の灯火を消す。
貴方が還ってくるのはここじゃないよ。大好きな彼女の元へいち早く降り立って。
そう呟いてアニスは祭壇の片づけを前面放棄してそのままガイの手を引いて部屋を出た。繋がれていた手は震えていなくアニスはちょっと眼を見開いた後にっこりと笑って戸惑っているガイに「帰ろう」と声を投げた。
帰ろう、私達が望んだ世界の片隅に。
かれらがかのじょらがいる、なみだのいらないさいかいめがけて。
[2012/08/25 - 再録]