「グランコクマから、呼び出し?」

 素っ頓狂な声で出てきた言葉は意外ではなかったものの、どちらかと言うとようやくと思えるものでなんだかそれが変な方向に道の置かれた人生の選択権のようでかなり大事なことのような気がした。とんとんとようやく終点の見えてきた書類たちの一部を適当に纏め上げながらガイに顔を向けてアニスは先を促した。

「ああ、どうもここに長く居過ぎ、そろそろ仕事に戻って欲しいと」

 確か朝には届いていた伝書鳩の足に付けられた紙を今頃開いて見せてガイは軽く眼を通してから肩をすくめた。その動作が軽度の疲れによるものだとアニスはすこしだけ同情する。話によるとピオニーは重要な事を最初か最後に書き込んであとはブウサギがどうの今日の天気は良かっただのと適当な世間話で大半を埋めるらしく逆を言えば両端だけ見れば用件は分かるという訳の分からないもはや手紙みたいなものを送りつけるのだ。それで例によって今回は初めに書いてあったものをアニスに報告しておいてその続きを律儀に読んでため息を零しそうになった、と。アニスなら間違いなくその無駄に嵩張りを見せる紙のほとんどを見なかったことにする。

「じゃあ私も一緒に行くよ。船の中で外交のやっちゃおう」

 実はまだアニスは外交の書類にさえ眼を通していない。ということは本来の仕事が始まってもいないわけでまさかそのままガイを帰らせるわけにもいかないのは実情だった。それをガイも理解してくれてそれでも一つ疑問をあげた。

「仕事は?」
「あと一日待ってくれれば何とかなると思う」

 机上に存在を主張している書類たちを眺め回しなんとか終わるかなと自分の技量の元に計算してアニスは神妙な声で伝えた。心もとなくてもそれ以上伸ばすと迷惑がかかることが目に見えている。

「明日出発、できるか?」
「まっかせて」

 心配そうに眼を向けるガイにアニスは胸を叩いて「大船に乗ったつもりで!」と微笑んでみせる。ようは今日中に仕事を終わらせて明日からの仕事をすこおし他の人に回してもらえばいいわけだ。使者様を接待も含めてグランコクマに送ってきますからとでもいえば何とかなる。残った準備は適当に済ませればすぐ終わる。自分のそういった動きの速さは理解していたのできっと準備自体は早いだろう。
 そうと決まればさっさと書類の群を片付けなければとアニスは気合を入れて嫌味なくらいに詰まった文字列を眠りに巻き込まれないよう細心の注意を払いながら出来る限りの早いペースで読み始めた。制限時間は時が明日を告げるまで。




「煮詰まってきたなあ」

 緊急だったのでいい部屋が取れるわけがなく結果狭苦しい部屋になるのは目に見えていたので気にはしなかったがこの篭った空気はどうしようもなく不快で思考が途絶えてしまうのも仕方のないことだった。

「うーあー、無茶苦茶だよ、どっちも」

 狭い所にいると無意識に猫背になってしまうものでアニスはぐいっと体を伸ばす。芯が延びきるのは気持ちよくて少しだけ気分が元に戻った。
 目の前に散らばるのは重要書類でそこには欲張った交渉ばかりで少しでも得しようとしている貴族の影がちらついて軽く苛立った。しょうがないといえばしょうがないのだがなんだかこんな事をしていて本当に平和になるのかはなはだ疑問だ。いっそどちらの貴族も没落させればそれなりに楽になる気がする。

「ねえ、息抜き。甲板に出ない?」

 病んだ思考が止まらずに連なる様を頭の中で見限ってアニスはガイに場所の移動を申し出た。絶対にここではいい案が出てくるはずがないし根を詰めすぎるのはストレスにも繋がる。胃に穴が開いたら大変だともちろん適度に解消できるアニス自身ではなくガイを案じての頼み。多分そのことにガイも気づいて苦笑でしょうがないなあと呟いてから了承の声をアニスに投げた。




「なあ、せっかくだから聞いてくれないか」

 代価交換。暖かく燃える招待状の時アニスがしたように、ガイはそんな切り出しで話の尾を引っ張り出した。髪が風に攫われ顔にかかったり後ろに巻き上げられたりせわしなく動くのに辟易しながら、アニスは海面に眼を向けているガイの横顔を見る。寂しそうな表情に小さく心が騒ぎながら特に突っぱねる理由もないしむしろ彼からそういった類の話を聞けるなら大切な人の証みたいで不謹慎ぽいが嬉しくてアニスは二つ返事を返した。

「ルーク、うん、ルークはルークなんだけど俺らと旅した方の」
「大丈夫。そっちのルークね」

 なんだか奇妙な会話だったがどのルークか一応確認しておかなければ会話が食い違うこともある。特に一国の姫や王族の赤髪にそして彼。昔の話をするときに多い食い違いの防止を最初にしておくとなるとこれは過去の話が主らしいとアニスは早々に大方の流れを掴んだ。

「俺はあいつが戻ってきて、生まれてきてよかったと思ってる。ナタリアには悪いけど、本当に屋敷で七年間世話してたのがルークで」

 なんとなく判るような気がした。仇の息子がその家庭を誇りに思っているに比例して憎しみは増えると思う。それがいきなりいなくなったかと思えば何も知らない赤ん坊のようなルークが帰ってきて複雑だっただろう。成長するにつれて昔に見ていたルークとはかけ離れていって家柄というより地位があることにしか目がいっていなく、それに加えてありえないほどにどこぞの不良のような人間に育って。いろいろな意味でガイの心に変化を与えたのだ、あのアニスたちが見てきたルークは。そしてそれがあの頃のナタリアとの心の差を憂いて先程の謝罪に繋がるのだと。歯切れ悪く語るガイは自嘲のような困惑のようなまるで自分が本当に自分なのかと至極簡単な問いに直面していることに戸惑っているような顔をしつつ先を続けた。

「それじゃないと俺はきっと屋敷の人間一人残さず殺してた。ペールと一緒に憎しみまみれの汚い手で」
「うん」

 黙っているわけにも口を挟むわけにもいかず結局アニスは相槌をいれてそのまま好きに進めていいよと視線を向ける。それに気づいてはいるだろうけれど見るときっと中途半端に止めてしまう小さな恐怖があってガイはそのまま船底の吸い込まれそうなほどの蒼に視線を固定していた。まるで波打つみなもに昔三人でいた記憶、もしくは赤髪の少年や公爵の血で紅くなった自分の手を眺めている虚ろな瞳が映し出されているように切ない顔をして。

「でも入れ替わったからこそアッシュもルークもみんなみんな生きていた。広い目で見ればどうなのか、死んでしまった人がいるかもしれないけれど」
「――うん」

 きっとそのもう一つの未来よりたくさんの無関係の人が地に還っていった。けれどそれは新しい世界で息づく新たな命のためにあったと思えば……綺麗なの?
 アニスはフォローできなくなり顔を俯けた。本当にこれでよかったのだろうか。死んでしまった人たちにとっては知らない未来でどうでもいい勝手に続いていく世界だ。私達にとってはどうなのだろうと思っても比べる未来がないからそれしか本当がなく、もしかしたらどちらにしても多くの命が嘆き哀しみ断末魔の声を張り上げながら死んでいったかもしれない。もしももしもがありすぎて真相が包み隠されているような不安がアニスの胸によぎる。
 幸せならいいのかな?
 誰かが教えてくれるものでもなければ答えなど落ちてもいない問いにアニスは歯を食いしばった。大切な人を殺しておいて幸せならいいと私は思っているの?
 あの柔らかい微笑がアニスの脳裏に蘇る。護るべき人であり生きていて欲しいと思っていたはずの人。憎まれても文句は言えないのにあの人は最期にアニスを大切な人といってくれた。ころしてしまったわたしにそんなことをいわないで。

「色々あって辛かったけど、今は幸せなんだ。俺たちにはまだ希望があるから」
「そうだね」

 進む会話にアニスはとっさに話をあわせた。思考を一旦切って全部端っこに寄せておく。ごめんなさいイオン様。もう少しだけ時間をください。今はこの人とちゃんといさせて。

「あいつ、どんな顔して還って来ると思う?」

 吹っ切れたような鷹の外れた声にアニスも軽い声で続けた。ばさばさと吹く風に声が飛ばされないように。

「どーだろ? とりあえずティアに土下座は決定でしょう」
「はは、やりかねないな」

 やらせるのとアニスが強制の意を示すとガイは陰りと消して苦笑した。いつもの笑顔でいつものように。それがアニスには嬉しくてたまらなくてでもそれを知られるのも癪なので柵に腕を乗せて少し乗り出しながら今度は声を風に流した。

「還ってきたら、いいのにね」
「旦那が上手くやってるだろ」

 ガイから聞いた話によるとどうやら笑ってごまかすくらいの自信がジェイドにはあるらしい。その笑いが自信かどうかなんてアニスには到底見定められないが研究所を乗っ取ってやることといったら、唯一つ。

「もお、早く還ってこないと見放されちゃうよお」

 ティアに皆に助けてくれた人たちに。
 早く還ってこいと叫びそうになったけれど叫んでその声が大きな海に吸い込まれるのが怖くてアニスは体を船に引き寄せる。甲板は涼しくて気分はさっぱりでどうかこの気持ちのよさをあの生まれて間もない紅の髪をもつ青年にもっともっと味わって欲しかった。





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[2012/08/25 - 再録]