結局風の音も太陽の光も優しい空の色も唯そこにあると思っただけでそれ以上は感じることができずにティアはしょうがなく心を空っぽにしたまま馴染み深い渓谷を訪れた。その碧たちにこれでもかというほど自己主張をされているのにティアは何も答えることが出来ず、戸惑いつつもただ頂上にあるはずのあの綺麗な控えめな光だと感じていたはずの花畑を目指す。ところどころで魔物が飛び出してきてなまった体に鬱陶しさを感じながらもそれほど苦はなく杖術で対応する。昔の感覚だけを頼りに動かしている状態でこんなところで己に全てを叩き込んでくれた教官を思い出した。ありがとうございます。たとえ最初は憎まれていてもあなたは私をこんな立派に育ててくれました。
 思ったより手間はかからず頂上に着いて広がる花たちに久しぶりの懐かしさを感じる。けれど感じたのはそれだけでやはり綺麗とか抽象的な感情は湧き上がってこなかった。比較的大きな岩の上で腰を降ろしすうと空気を吸い込み吐き出す。これはけじめだ。彼の成人の儀という曖昧な区切りをみやすいように深くしてきちんと現実を受け入れるための。

 私は信じてます。
 だから帰ってきてください。

 まだよろよろしく感じる風を一身に受け止めティアは恐る恐る日記を開く。綴られる不恰好な文字は間違いなく彼のもので、時々彼をご主人様と慕うチーグルの落書きみたいな文も入っていて思わず噴き出したりする。忘れることのない旅の心、想い、後悔、いろいろなものがティアの中に入り込んできて、なぜか今なら謳えると思った。日記を読む目はそのまま進めて小さく小さく口ずさむように自分の声を確かめてから少しずつ声を大きくして。きちんと歌えるほどの声がでてきたら今度は気をこめられるように抑揚をつけて。触りと風の吹き方が変わるのを感じ後ろから迫る駆け足の音を耳にして、もうそろそろ謳えるかなと一気に息を吐き出してから胸を満たすくらいに吸い込んだ。空気はなんだか新鮮なように思えて嬉しくて、嬉しすぎて涙が出そうでそれでも読み勧める瞳は反らさずに規則的に進む。
 ページを捲ると最後の貢らしくいつもより落ち着いた文字に掠れが加わっていて、短く仲間への感謝と願いが記されている。ゆっくりと日記を閉じて仲間の掛け合いを耳にしながらまるで小さな子どもが親の帰りを待つように、絶対的な信頼の上で成り立つ口ずさみの歌のようにティアは謳った。
 ごめんなさい、私は今まであなたが帰ってくることばかり待っていました。
 それしか出来ないと思い込んでただ立ち止まるどころか昔の彼よりもひどく自分を見失って。
 自分のことしか考えられなかった身勝手さを許して。貴方の大好きな世界を護るために今度はちゃんと立ってみせるから。やがて譜歌というユリアが残した慈しみの歌が終わりティアは一つ息を吐く。久しぶりの歌は心が顕れるようで複雑だった。それがいい事なのかは今のティアには分からない。  その後すぐに背後から声がかかりティアは旅をしていた頃と同じようにごくごく普通の調子で言葉を返す。当然のように繰り広げられる会話は懐かしくて、居心地が良かった。久しぶりも下手な慰めもない暖かな場所。今まで逃げてきたのにまたやって来た優しい優しい心の支え柱。

「そろそろ降りましょう。夜の渓谷は危険です」

 しばらくの会話の後紡がれたその言葉に次々と帰ろうとする仲間達に従いきれなくティアはただ前を見た。すこし潤み始めた視界は仄かな光をティアに与えていて、どうかそれなら彼に光を与えてくださいと頼み込む。
 どうか私よりも彼に。帰ってくる道標になってください。
 数時粘って何も進展のない渓谷にティアは小さく落胆しすぐに落ち込みを振り切ってまだ先があると勢い込んだ。まだ未来がある。一年二年、もっとたくさん。
 待っていると約束したんだ、なら守らないと。ただし今度はちゃんと昔のティアになっているように。
 そんな事を思いながら岩を降りようとすると、ふと視界に違和感のある色が飛び込んだ。燃えるような紅、そうそれは夕日のような――

「――ク」

 小さく漏れた声は後ろの仲間達にも届いてその驚愕の声にティアは自分の瞳はきちんと彼を見ていたのだと理解した。髪を攫う風が一吹き、それは確かに涼しい暖かさをもっていてティアは前に、彼の近くに歩み寄る。
 ありがとう。
 誰に対してかわからない、もしかしたら世界に夢を持っている全ての人にたった一言だけ感謝溢れる言葉をティアは愛しげに呟いた。





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[2012/08/25 - 再録]