ようやく。
 還ってきたか。

 この邸宅に訪問する者は揃って厳粛な足音を響かせるの対し、今耳が捕らえた音は弾むような軽いもの。小さいときに今も昔も想っている少女以来の、邸宅内で耳にする優しさのある、暖かな。
 アッシュは昔、ずっしりとした威厳のある剣の飾られていた柱に寄りかかっていた体を引き離してアッシュの動きに不思議がるメイドたちを一歩退かせながら門前に立つ。次第に弾む足取りは大きくなり引き連れて歩く控えめな音が二つ、その他追ってくるざわめきが扉の向こう側から遠く聞こえる。足音にまるで保護者のようだなと内心微笑しだいたい想像のつく面子にアッシュは珍しく頬を緩めた。

「ただいまっておわあ!?」
「遅い。知らないうちに前よりものろまになったか」

 普通ならありえないくらいに勢いよく開け放たれた扉から昼の光と共に赤毛の青年が遠慮なく入ってきた途端声をあげたかと思ったら叫び声に一転し慌てて耳を塞いでから冷静を装ってひねくれた挨拶を返した。相手もだいぶひどい対応だったのだから貸し借り無しだ。そうしてやったことに感謝して欲しいくらいだ。そんな事をアッシュは淡々と考えていられたが周りにとってはとんだ大惨事で周りで清掃を行っていたメイドが短い悲鳴を上げたりと混乱し始め応接室などの要所に配置された家の私兵は大きく口を開け中年の執事はひいと顔を恐怖にゆがめて腰を抜かす。ずいぶんな対応にアッシュと同じ顔で同じ髪色で、けれど心はそれぞれ個に受け取っている青年は子どものように頬を膨らませて一番ひどい反応をした執事に的を絞ってぷんすか怒った。

「なんだよ、死体が動いたような顔しやがって」
「死体もなかったもんな」

 ひょいと軽い動作でアッシュの前に踊り立ち共に入ってきたナタリアとティアはくすくすと上品に苦笑してその片方がほら、と青年の肩を小突いてアッシュに指をさす手前で手を引っ込めてから青年を少しだけ仰ぎ見る。

「礼を言いなさい。成人の儀を無理に延ばしてもらえるよう頼んでくれたらしいから」

 本当に延びたなんて信じられないけれどと余計な一言を付け足していい度胸になったじゃねえかとつい喧嘩を売るような真似をしそうになったがすんでのところでナタリアの静かな静止の瞳と眼があって勢いを殺した。なんだかまだユリアシティでの事を根に持たれているらしい。一応演技だったはずなのだが。

「ありがとうな、えっとそれで、」
「そんなこといってる暇があるならさっさと用意しろ。母上や父上は、ずっとお前が還ってくるのを待っていたんだぞ」

 いわれてやっと気がついたように姿勢を正してから青年がじれったく無謀な感謝を伝えようとしているのを聞くのがめんどくさくなったと同時に気恥ずかしかったので城の方に指を向けてけだるそうに声を押し出す。以前のようにそこまで刺々しくはないものの相手を突き放す口調は治らなかった。なにせもうすでにそれを十年以上続けているのだ。前のようにしっかりした声が消えたわけではないはずだが曲がっていそうな口調は早々変わらない。

「うえ、もう待たれてたのか」
「もう何日も城に滞在しているんだがな」

 いつ還ってきたのか知らないがせめて成人の儀に間に合うように戻ってくれれば周りに迷惑がかからなかったのに。延期になった理由が子爵と公爵のストライキまがいの事件だと知ったらさぞかし驚くだろう。けれど今更そんな事を責めたって後の祭りでお互い墓前の儀にならなくてすんだことを幸運と思うべきなのかもしれない。

「では私達は皆さんを連れてきますわ。すぐにでも儀に入るのでしょう」
「ああ、頼む」

 本来青年が言うべきこともなぜかアッシュが代弁する。ふわりと髪を揺らし了解ですわとナタリアは微笑んだ。多分待っていてくれてありがとう、といいたいのだろう。

「頑張ってね。……日記読んだわよ」

 ティアはどちらにも反応のある言葉を吐いてアッシュを一瞥した。そのことにまったく気づかなかった青年は「聞いたぞ、それ」と頭をかきながら不思議そうにティアからしてみれば勘違いで受け取られた声が投げられる。
 少しどもった声で取り直そうとするティアにアッシュはわずかに口の端を上げ目ざとくその変化に反応したティアが「貴方のせいでしょ」と以前の気の強さに近づいた口調でアッシュに突き立てながらナタリアの手を引いてみんなの所へ戻りましょうと急かしだす。引かれたナタリアは微笑ましいものを見る瞳を崩さず青年二人に礼を向けてから「楽しみにしてますわ」と告げて邸宅を後にした。

「じゃあ俺らも行かないと――」
「バカかお前は。準備しろといっただろその服で出るつもりか」

 今しがた話して聞かせた事をすっかり忘れられアッシュは大仰に嘆息する。こんな奴が自分の代わりに貴族社会で生きてきたということはもちろん本来の自分の格が下がっているわけでなんだか気味が悪かった。まるで成り下がりのような人間崩壊を起こしてしまったとかふざけた噂がまことしやかに囁かれていたに違いない。

「あー、ははは。まあブランクって奴?」
「もういい、さっさと正装に着替えろ。文句は後でにしてやる」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。落ち着け、落ち着いて聞け?」

 堂々と手の平を胸の前で開き青年は一歩後ろに退きつつ訳の分からない勢い削ぎをした。微妙な焦らしの多いやつだなと苛立ちを感じながらさっさといえと半ば怒鳴る。

「……多分一人じゃ着替えられない、かなあ」

 アッシュの服装を適当に眺めて青年は息をついた。息をつきたいのはこっちだといいたくなったがそんな元気も削がれたようでアッシュは着用している服に視線を投げる。少しごみごみとした装飾品が多いものの構造自体は至って簡潔なもの。なんだかそれを教えてやるのもバカらしくて怒鳴り当たる気力さえ根こそぎ消えうせアッシュはすこし、多分かなり途方にくれた。

「……とりあえず部屋に行くぞ」
「手伝ってくれるのかっ!?」
「自分で何とかしろ、勘だ勘」

 ぱあと顔を明るめた青年を一蹴し背中を蹴り上げ前に進ませようとしたが逆効果だったらしく痛みを訴えながら青年はうずくまる。これではただの憂さ晴らしにしかならなかったと結局その憂さ晴らしで役目を終えてしまった行動にたいして罪悪感など感じずにただもう待つことにさえ面倒になってきたので遅らせている張本人をほったらかしてずかずかいらつきを残した音を奏で青年の部屋に向かった。




「そういえば俺の部屋ってアッシュの部屋じゃないのか?」

 慌てた足音を響かせながらアッシュに追いついた赤毛の青年、ルークは足並みをそろえて一息ついてからそんな疑問を投げかけた。それはそれはかなり今更といえば今更なことでとっくにその問題点は解決している。

「あんな汚された監禁部屋はお前専用に決まっているだろう。馬鹿にするな」

 アッシュの部屋は増築してくれるらしく現在その工事の真っ只中だった。ただ最近は成人の儀関連でごたごたがあったから一時休止ということになっている。
 廊下をぐちぐちとしゃべくりながら堂々と歩く二人の赤毛を認めて家に遣う者達は皆おいおいの口を大きく開いてから大声でお帰りなさいませと嬉しそうに微笑みながら伝えていた。その旅にルークは気恥ずかしげにただいまと言い返すのが続く。

「まあそんなことはどうでもいい、今日からお前の兄になるから覚悟しとけ」

 本当にどうでもいい事をいちいち語っていたなと内心嘆息しつつ隣でへらへら笑っているルークにナタリアの誕生日パーティ付近で正式に決まったことを親切にも教えてやる。それにルークは遠慮せず本気で眉を顰めええーと不満の声をあげた。今そんな嫌そうにされたってもう仕方がない。なにせ我らが父上がすでに公言してしまったから。取り返しはつかないし文句があるのなら早く還ってこなかった自分を恨むのが順当だ。

「当然だろう。ファブレ公爵家の息子は二人だ」
「そーだけど」

 たしなめようとしたらぶうたれた声が返ってきてアッシュはこれ以上何もいわなくていいんじゃないかと思った。もういいか、この件は全部流しておこう。自分で切り出したのにもかかわらずアッシュはそんな自己完結をして次の重要な事柄を述べだす。

「きっちりと貴族社会に馴染むようしごくからな」

 何気なくこれはかなり大切なことでこれだけでもルークには死力を尽くしてもらわないといけない。現在「ルーク・フォン・ファブレ」はなかなかすっぱりとした異物扱いだ。そんな固定観念たっぷりの貴族連中に不本意ながらも受け入れてもらわなくてはならない。いくら王族と入ってもそこらの事情は全て流されるわけではないのだ。アッシュは全然問題なくすでに溶け込んでいるが彼はどうも礼儀作法などが出来ていない。下を向いたりきょろきょろしたりせずこの廊下を歩くように堂々と前を向いていけるように。そうするためにナタリアも手伝ってくれるといっていた。

「うっし、何とかなるよう頑張るよ。手伝いよろしく、兄上?」
「胸糞悪いアッシュでいい」

 そんな説明を入れると嫌々そうな顔が一変してしっかりとした顔つきになる。そんな表情で冗談だと信じたいことを言われアッシュは身震いをして即座に突っぱねる、たわいない兄弟のようなやり取り。やっと本来あるべき日常になった気がした。ここまでの無限の距離は無駄ではなかったと思う。その狭間があったからこそ、自分達は今こうしてここにいられている。
 そんな会話を繋いでいるとルークの部屋の前にたどり着く。吹き抜けの庭園にはそよそよとしたいつもと変わらない穏やかな風が今日も変わらず吹いていてルークがいてもいなくても不変に吹き過ぎる。じゃあ待ってろよと衣装への不安を拭いきれないらしいルークのわずかに青白い顔をアッシュに向け、嫌々懐かしの部屋に入ろうとするルークを呼び止める。

「生きていることに何か意味があると思うか?」

 早くしろと言ったのは誰だと愚痴られる前にアッシュは声を飛ばす。わざと抽象的な言葉を選んだのに大した理由はないがちゃんとした答えが欲しかった。人を殺めた赤髪の青年は本当に生きることへの誠実な意思を持っているのかを。一瞬訳の分からなさそうな顔、次に少し考えて最期に真剣な瞳でルークは答える。

「いろいろな人に感謝してる。生きている意味はなくても俺はここにいるから。だから精一杯頑張る。できるだけできる事をするだけだろ」

 よしとアッシュが頷いたのを見てルークは人当たりの良い笑みを浮かべ、今度こそ部屋に吸い込まれていく。晴天に優しい花の香り、屋敷唯一の自然の中でアッシュは心がすっと軽くなったのを感じた。




 そうして僕らも生きていく。大好きな世界で大好きな人と。  いつかまたここで逢いましょう。あなたが愛したわたしが愛した優しい優しいこの場所で。





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[2012/08/25 - 再録]